NAKAMURA SEIKO 1884 — 1974

中村 星湖

なかむら せいこ / 本名 中村 將爲(まさため)
1884年(明治17年)2月11日 ― 1974年(昭和49年)4月13日

山梨・富士山麓の御師の家に生まれ、早稲田大学英文科で坪内逍遥・島村抱月に学び、在職わずか5ヵ月に終わった小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)について、『一瞥したる二文豪』で講義には出ず、九月半ばに一瞥しただけだったこと、没と葬儀を克明に記した学生の一人。二葉亭四迷・島村抱月 選の懸賞小説で『少年行』が一等当選し、相馬御風・吉江孤雁と『早稲田文学』の中核として自然主義文学を担った。国木田独歩の最期を題材にした「彼等は踊る」、フローベール『ボヴァリー夫人』の先駆的翻訳、相馬御風との共編『文藝百科要義』、山人会結成と『文化は郷土より』――本人執筆の文章と公的機関所蔵の一次史料のみで辿れる、中村星湖の全体像。

中村星湖、早稲田大学在学中の肖像、1906年(明治39年)12月撮影、22歳
早稲田大学在学中の中村星湖 1906年(明治39年)12月、22歳。
『少年行』で一等当選する5ヶ月前。山梨県立文学館蔵。 出典 山梨県立文学館(開館35周年記念 特設展「生誕140年 歿後50年 中村星湖展」プレス公開画像)
撮影 1906年・撮影者不詳 / 旧著作権法 第23条 保護期間満了 / Public Domain
ABOUT

本サイトについて

本サイトは、小説家・中村星湖に関する情報を、本人執筆の文章(随筆・小説・評論・草稿)と、公的機関(国立国会図書館/早稲田大学/山梨県立文学館/糸魚川歴史民俗資料館 ほか)が所蔵する一次史料のみを根拠としてまとめたものです。

編集方針: 二次情報・生成AIの出力・伝聞エピソードは一切使用していません。逆に、世間に広く流通している「中村孤月が星湖を『長距離選手』と評した」「星湖と會津八一が『早稲田の三羽烏』と呼ばれた」といった記述で、一次資料に当たった上で確認できなかったものは、本サイトでは扱っていない/未確認として明示しています。各項目の末尾に出典を付しました。
画像の使用方針: 本サイトは個人の非営利・学術目的で運営されています。掲載している肖像写真・図版は、日本の著作権法上のいずれかを根拠に安全に利用できるものに限っています。
(1)パブリックドメイン:旧著作権法第23条(写真の保護期間=公表後13年、現行法への経過措置でそのまま失効)、または著作者の死後70年(法人著作は公表後70年)の経過により、著作権保護期間が満了したもの。本サイトの肖像写真はすべてこの区分に該当します。
(2)著作権法 第32条「引用」:公表済みの著作物を、本文の論評・解説の範囲内で、主従関係を明確にしたうえ、出典を明示して使用できる規定。本サイトでは、南湖院 1908年集合写真を含む『ふれあい特集号 vol.36』紙面、および現代アンソロジー・復刊本2点の書影を、この規定に基づき引用図版として掲載しています(出典・主従関係・必然性を満たした上で掲載)。
中村星湖(1906年 22歳)の肖像は、撮影から119年が経過しており旧著作権法下で保護期間が満了済。相馬御風(1912年 29歳・1918年 35歳)の写真も同様にパブリックドメインです。画像出典・根拠は本サイト末尾の「一次資料・出典一覧」内「本サイト使用画像の出典・ライセンス」に一括して掲載しています。
氏名中村 星湖(なかむら せいこ)/本名 中村 將爲(まさため)
別号星湖樓主人、星湖生、銀漢子(ぎんかんし)
生年月日1884年(明治17年)2月11日
没年月日1974年(昭和49年)4月13日(享年90)
出生地山梨県南都留郡河口村(現・南都留郡富士河口湖町河口)
富士講の御師(おし)を代々務めた旧家・中村家の長男。父・栄次郎、母・ため。
学歴河口尋常高等小学校 → 山梨県尋常中学校(現・甲府第一高等学校)→ 早稲田大学 高等豫科(約一年半年)→ 大学部文学科英文科・本科(卒業明治40年=1907年)。※在学の段階区分は本人の回想〈『早稲田學報』第146号・「一瞥したる二文豪」〉に依る。八雲の講義については同随筆本文で聴講していない旨の記述がある。
職業小説家・評論家・翻訳家・教育者
『早稲田文学』記者(1907–1919)/日本女子高等学院(1930年代)/山梨学院短期大学 教授(1951–)/河口村 教育委員長(戦後〜約30年間)
主な受賞1956年 山梨県文化功労賞
没後の顕彰山梨県立文学館 常設展「中村星湖コーナー」/
中村星湖文学賞(山人会 1987年制定/2022年3月 山人会解散・通算35回で幕)
河口湖畔 産屋ケ崎「少年行」碑(1957年建立)
BIOGRAPHY

生涯 ― 年表でたどる 中村星湖

1884明治17

山梨県南都留郡河口村に生まれる

2月11日、富士講の御師を代々務めた中村家に、父・栄次郎、母・ための長男として誕生。本名・將爲(まさため)。

1895頃明治28頃

河口尋常高等小学校を卒業、山梨県尋常中学校へ

中学時代から雑誌『中学世界』『中学文壇』に文章・漢詩を投稿、発表する。

1904明治37

早稲田大学本科(英文科)へ — 高等豫科修了後

坪内逍遥・島村抱月に師事。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は前年の1903年(明治36年)3月に東京帝国大学を退職したのち、1904年(明治37年)4月より早稲田大学の英文学講師となった。週4時間は大学が八雲に割り当てた講義担当の目安である。同年9月26日に急逝し、在職はわずか5ヵ月に終わった。後年の〈『早稲田學報』第146号・「一瞥したる二文豪」〉では、当時八雲の講義(聴講)には出ていないこと、「来年になったら先生の文學史を聴く」と思っていたこと、九月半ばの一瞥がなければ生涯に一度も先生に会えなかったであろうこと、そしてその一瞥から二十日足らずのうちに先生が没したことを、本人の言葉として記している。

1906明治39

『新小説』懸賞で「盲巡礼」が一等入選/藤村を訪問

在学中、雑誌『新小説』の懸賞で短篇「盲巡礼」が一等入選。これが事実上の文壇デビューであり、翌年の「少年行」当選の前段にあたる。同年夏、郷里・河口湖畔で「少年行」を執筆。同年11月、大久保の八雲旧居のそばから浅草区新片町へ転居した島崎藤村を柳橋近くに訪ね、対面する(「一瞥したる二文豪」に日記形式で記録)。早稲田大学在学中の12月に撮影された22歳の星湖の写真が山梨県立文学館に現存する。

1907明治40

「一瞥したる二文豪」発表/『少年行』で一等当選/卒業・早稲田文学社へ

4月1日、『早稲田學報』第146号に随筆「一瞥したる二文豪」を掲載。小泉八雲については講義は聴かず一瞥のみだったことの告白、没日・葬儀と、島崎藤村の住居変遷・訪問記を克明に記録。5月、『早稲田文学』第18号臨時増刊の懸賞長編小説に『少年行』が二葉亭四迷・島村抱月 選で一等当選、学生作家として文壇デビュー。主人公は奈良原武と転入生宮川牧夫の二人。卒業後、島村抱月の推挙で『早稲田文学』記者(社員)となり、前年から同誌編集にあたっていた相馬御風と合流する。初出テキストは総ルビで掲載され、後の植竹書院単行本(1915年)と若干の異稿がある(山梨県立文学館レファレンス事例)。

坪内逍遥(1859–1935)の肖像
坪内 逍遥1859–1935
早稲田の師 典拠 NDL「近代日本人の肖像」/ PD
島村抱月(1871–1918)の肖像
島村 抱月1871–1918
師 /『少年行』選者 典拠 NDL「近代日本人の肖像」/ PD
二葉亭四迷(1864–1909)の肖像
二葉亭 四迷1864–1909
『少年行』選者 典拠 NDL「近代日本人の肖像」/ PD
1908明治41

茅ヶ崎・南湖院の国木田独歩を相馬御風と共同見舞い/第一短篇集『半生』

6月、病床の独歩を相馬御風とともに早稲田文学社を代表して見舞う。星湖と独歩の対面はこの一度限り。独歩は同月23日に没(36歳)。12月、第一短篇集『半生』を早稲田文学社より刊行。同年冬からは牛込弁天町79番地(現・新宿区)に居住(大正4年春まで)。

1911明治44

夏目漱石からの書簡 ―『東京朝日新聞』文芸欄への寄稿許可

7月25日、夏目漱石から星湖宛の書簡。『三田文学』掲載の久保田万太郎「朝顔」の評価をめぐり、漱石門下の小宮豊隆への反論を「東京朝日新聞」文芸欄に寄せたいと星湖が申し出たことへの、文芸欄創設者・漱石からの了解。漱石は文字数を伝えたうえで、「小宮を相手にする意味でなく読者を相手にする御積(おつもり)にて御執筆被下候はゞ仕合せに候」と記している。この書簡は2024年「生誕140年 歿後50年 中村星湖展」で公開された、星湖と漱石をむすぶ貴重な一次史料。

1910明治43

第二短篇集『星湖集』、長篇『影』を相次いで刊行

4月『星湖集』(東雲堂)、10月『影』(今古堂)。新進自然主義作家として脚光を浴びる。

1913大正2

モーパッサン翻訳に着手、第三短篇集『漂泊』

8月『漂泊』(春陽堂)。モーパッサン『月光』(海外文藝社)を邦訳、仏文学翻訳に本格参入。

1914大正3

評論「モオパッサンの象徴主義」発表

『早稲田文学』1月号で、自然主義の到達点を「物心一如のサムボリスム」と定式化。10月、第四短篇集『女のなか』(早稲田文学社)。モーパッサン『死の如く強し』(博文館)訳。

1916大正5

「彼等は踊る」/『ボヴァリー夫人』訳刊行

6月、フロオベル『ボワ゛リー夫人』(早稲田大学出版部〈近世文學〉)刊行――日本語による本邦初の単行全訳の一つ。9月、雑誌『太陽』秋季大付録に短編小説「彼等は踊る」を発表。国木田独歩の最期を題材にしたモデル小説で、作中「細井」のモデルは相馬御風。なお『ボヴァリー夫人』翻訳は発売禁止処分を受ける。

1919大正8

『早稲田文学』を退社/『東京朝日新聞』連載『かくれ沼』

6月、『文章世界』独歩小特集に随筆「独歩について」を寄稿(他の執筆者:赤木桁平・田山花袋・片上伸)。7月、第五短篇集『失はれた指輪』(天佑社)。同年、13年勤めた早稲田文学社を退社。10月24日から翌1920年1月20日まで『東京朝日新聞』に長篇小説『かくれ沼』を全87回連載、挿絵は池田輝方(『新聞小説史年表』/朝日新聞クロスサーチで確認)。以後、鈴木三重吉『赤い鳥』に童話を発表するなど、作家・批評家として自立した活動へ。

1924大正13

農民文藝会 結成に参加

シャルル=ルイ・フィリップの13周忌記念講演会をきっかけに、犬田卯を中心に農民文藝会が結成される。星湖はこれに発起人の一人として参加。同会は1926年に『農民文芸十六講』(春陽堂)を刊行、メンバーは犬田卯・中村星湖・白鳥省吾・和田傳・加藤武雄・吉江喬松・椎名其二・大槻憲二・湯浅真生・黒田辰雄ら14名。星湖はこれ以降、農民文学・民衆芸術論の第一線に立つ。

1921大正10

相馬御風と『文藝百科要義』を共編

6月、相馬昌治(御風)と共編で『文藝百科要義』上・中・下 全3巻(春陽堂)を刊行。星湖と御風の盟友関係が書物の形で残った最大の一次資料。全3巻とも国立国会図書館に現存し、デジタルコレクションで公開中。

1923大正12

『山梨日日新聞』サンデー文壇 小説選者

前田晁とともに『山梨日日新聞』サンデー文壇の小説選者に。短歌 佐々木信綱、俳句 内藤鳴雪・飯田蛇笏、川柳 阪井久良伎らと並び、郷土文芸の振興を支える。

1925大正14

山人会の結成

山梨県出身の文化人の懇談会「山人会」を前田晁らと結成、会の名称を提案し、以後 1971年4月まで約46年間 会長を務めた。

1926大正15/昭和元

『評論講座』刊行/『山梨日日新聞』文芸欄の小説選者に

『評論講座』(金星堂)を刊行。同年、『山梨日日新聞』文芸欄の小説選者となり、郷土文芸の振興を支える立場に立つ。1930年代には日本女子高等學院で教鞭を執り、1933年には同院明治文學研究會の『明治文學講習會の記』を編纂(人見圓吉・川本春野と共著)。

1927昭和2

『農民劇場入門』/『ボヴァリー夫人』が〈世界文學全集〉入集/独歩連載

4月〜5月、『報知新聞』に「詩人独歩と語る」連載。6月、『早稲田文学』に「自然主義運動の回顧」寄稿。同年、農民文学運動の入門書『農民劇場入門』を春陽堂から刊行。8月には、かつて1916年に刊行された星湖訳『ボヴァリー夫人』が、新潮社〈世界文學全集〉第20篇として廣津和郞との共訳『ボヴァリイ夫人/女の一生』の形で入集、ベストセラーとなる。この印税が翌年のフランス留学の費用となった。

1928昭和3

フランス留学 ― チェコ国際民俗芸術会議、ロマン・ロラン訪問

5月、神戸港から乗船してフランスへ。6月、パリ着。約1年間ヨーロッパ各国を精力的に訪れる。10月、本間久雄とともにチェコで開催された国際民俗芸術会議に参加11月、スイスにロマン・ロランを訪ねる。翌1929年5月、帰路に就く。パリ下宿の窓辺を描いた油彩画は山梨県立文学館が所蔵。

1934昭和9

神奈川・溝ノ口に「国木田独歩記念碑」を建立

独歩「忘れえぬ人々」の舞台・高津町溝ノ口の亀屋前庭に、題字島崎藤村揮毫、碑文中村星湖執筆の記念碑を建立(現在は川崎市立高津図書館前に移設)。同年だけで独歩関連の評論を4本以上発表(『日本文学講座 第十一巻』改造社/『山梨日日新聞』/『秋田魁新報』/『弘文』 ほか)。

1940昭和15

富士五湖地方文化協会を結成/『五湖文化』創刊

郷土の文化運動をさらに深化させる。二葉亭四迷『其面影』(新潮文庫)の解説を執筆。

1943昭和18

『文化は郷土より』刊行(柳田国男宛献辞あり)

4月、大智書房より『文化は郷土より』を刊行。柳田国男への献辞が添えられている。

1945昭和20

郷里・河口村へ疎開

戦火を避けて郷里へ帰り、以後約30年間ここに定住。村の教育委員長を務め、村人へ俳句を指導、県下の小中学校校歌の作詞を多数手がけた。

1951昭和26

山梨学院短期大学 教授に就任

地域の高等教育に貢献する。

1953昭和28

「処女作の感想」で独歩見舞いを再回想

『現代作家処女作集 早稲田作家篇 第1集』(潮書房)に「処女作の感想」を書き下ろし。45年前の南湖院での独歩との一期一会を、相馬御風との共同見舞いとして再び詳述。

1956昭和31

山梨県文化功労賞 受賞

長年にわたる文学・教育・郷土文化への貢献が公に評価される。

1960年代昭和40年代

「彼等は踊る」注釈の試み(未完)

「彼等は踊る」に実名・注釈を付して再刊行すべく、草稿「国木田独歩のこと」を二度にわたり書き進めるが、いずれも中絶(山梨県立文学館蔵、資料番号 230000802/230001720)。星湖が晩年まで独歩・御風との南湖院体験を大切にしていたことを示す貴重な未刊行資料。

1974昭和49

逝去 ― 享年90

4月13日、死去。享年90。郷里・富士河口湖畔の産屋ケ崎には、1957年建立の『少年行』碑が今も立つ。山梨県立文学館の常設展には「中村星湖コーナー」が設けられている。

1987昭和62

没後 ― 「中村星湖文学賞」制定

星湖が発足にかかわった山梨県出身の在京文化人団体「山人会」が、郷土文化振興のため「中村星湖文学賞」を制定。山梨県にゆかりのある作家が執筆した、あるいは山梨県を題材にとった作品(小説・戯曲・ノンフィクション・文芸評論・伝記など)を対象とした。

2022令和4

山人会解散 ― 中村星湖文学賞は35回で幕を閉じる

3月、山人会が解散。これに伴い中村星湖文学賞は通算35回で幕を閉じた(山梨県立文学館公式プレスリリースによる)。

2024令和6

山梨県立文学館「生誕140年 歿後50年 中村星湖展」

4月27日〜6月23日、山梨県立文学館 開館35周年記念として30年ぶりの中村星湖特設展が開催される。星湖「少年行」自筆原稿、夏目漱石からの書簡(1911年7月25日)、『ボヴァリー夫人』初版、『文化は郷土より』、パリの下宿の窓辺を描いた油彩画など、星湖の一次史料が一堂に並んだ。関連講演は中丸宣明(法政大学教授)「中村星湖 自然主義文学の再評価の中で」、講座は保坂雅子(同館学芸課長)「資料から見える中村星湖の人と作品」。

WORKS

作品紹介 ― 中村星湖の書架を歩く

中村星湖は 67年 の作家生活で、小説・評論・翻訳・随筆・共編を合わせて 150篇を優に超える 作品を残しました。 本ページでは、代表作を 「文壇デビュー」「郷土と少年」「自然主義の内側」「翻訳家・星湖」「農民文学への転回」「郷土文化の思想」 の6つの窓口から、初出・冒頭・あらすじ・見どころ・いま読める場所 とともに紹介します。 ――すべて、国立国会図書館・山梨県立文学館・早稲田大学で確認できる一次書誌に基づいています。

小説 ― 長篇・短篇集 NOVELS & SHORT STORIES

小説・短篇

盲巡礼(めくらじゅんれい)

1906年(明治39年) / 『新小説』懸賞 一等入選

星湖の事実上の文壇デビュー作。早稲田大学在学中、大手文芸雑誌『新小説』の懸賞小説で一等に選ばれた。翌年の『少年行』当選への助走となり、無名の学生作家が本当に文壇入りを果たした決定打。

◇ 山梨県『ふれあい特集号 vol.36』(齋藤康彦 監修)
◇ コトバンク「中村星湖」
短篇集

半生(はんせい)

1908年(明治41年)12月 / 早稲田文学社

星湖の第一短篇集。早稲田文学社 記者時代の初期短篇を集める。国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されており、本人の初期作風をそのままの組版で読むことができる。

◇ NDLデジタルコレクション: dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/887884
短篇集/長篇

星湖集/影

1910年(明治43年)4月 / 東雲堂 + 同年10月 / 今古堂

4月刊『星湖集』(第二短篇集)と10月刊『影』(長篇)を同年に相次いで刊行。新進自然主義作家としての脚光のピークを示す書物。短篇集の表題「星湖集」は、彼の号を冠した唯一の主観的タイトルでもある。

◇ 紅野敏郎編『精選 中村星湖集』年譜(早稲田大学出版部、1998年)
短篇集

漂泊(ひょうはく)

1913年(大正2年)8月 / 春陽堂

第三短篇集。「身近な事象に基づく作品」(山梨県『ふれあい特集号』)を重ね、星湖文学の「地に足のついた自然主義」がほぼ完成した時期の集成。同時期にモーパッサン翻訳にも着手、評論家としての地歩も築く。

◇ NDLサーチで現存確認
短篇集

女のなか

1914年(大正3年)10月 / 早稲田文学社

第四短篇集。表題作「女のなか」は『明治文學全集72』(筑摩書房、1969)に再録され、後世も読まれ続けている星湖の代表中短篇の一つ。

◇ 吉田精一編『明治文學全集72』筑摩書房、1969年
短篇集

失はれた指輪

1919年(大正8年)7月 / 天佑社

星湖が『早稲田文学』を退社した年に刊行された第五短篇集。自然主義文学者としての区切り、そして批評家・翻訳家・児童文学者・郷土文化運動家へと領域を拡張する前夜の一冊。

◇ 近代文献人名辞典(β)「中村星湖」
小説・長篇

かくれ沼

1919年10月24日〜1920年1月20日 / 『東京朝日新聞』連載 全87回

『早稲田文学』退社と同年、全国紙に長篇を連載。挿絵は浮世絵系洋画家 池田輝方(全87回すべてに「池田輝方 画」の表示)。新聞小説の黄金時代に書かれ、星湖のもっとも広い読者層に届いた作品

◇ 高木健夫 編『新聞小説史年表』国書刊行会、1987年、p.188
◇ NDL レファレンス協同DB 事例 1000368950(山口県立山口図書館、2025年)
短篇アンソロジー

『明治文學全集72』収録 短篇 8作

1969年5月26日 / 吉田精一編/筑摩書房

20世紀に再評価のために選ばれた星湖の短篇8作:「驕兒」「村の西郷」「一切の事」「畑」「粉負ひ」「通過」「蛆蟲のやうに」「女のなか」。解説は中村孤月「中村星湖論」と吉田精一「中村星湖」が併載、年譜は山田清吉・榎本隆司・伊狩章・紅野敏郎編。星湖の短篇ベスト集として、いまも古書店で入手可能。

◇ 筑摩書房 1969年5月26日刊、菊判434頁

評論・随筆 CRITICISM & ESSAYS

評論

モオパッサンの象徴主義

1914年(大正3年)1月 / 『早稲田文学』

「真の自然主義の到り着くべき所は物心一如のサムボリスムでなければならない」 ―― 日本の自然主義を、フランスの象徴主義と切れ目のない連続体として捉えなおす、星湖の理論的到達点。豊島与志雄の「恩人」を真っ先に称揚した「五月の小説(三)」(『時事新報』1914年5月10日)とも呼応する、同時期の星湖の批評活動の核。

◇ 河内美帆「第三次『新思潮』時代の豊島与志雄」『日本近代文学』第109集(本論文を一次資料として検討)
随筆

独歩について

1919年(大正8年)6月 / 『文章世界』博文館

国木田独歩 没後11年の小特集(他の執筆者:赤木桁平・田山花袋・片上伸)に寄稿。「私は独歩にはたゞ一度逢つた切りである、それも彼が死ぬ一週間前位ゐの、極きはどい時にだつた。……相馬御風君と私とで、早稲田文学社を代表して見舞ひに行つた、それが初見参でもありお別れでもあつた」――星湖・御風・独歩の三者関係を語るもっとも強い一次証言

◇ 独歩との対面が「死ぬ一週間前位ゐ」(=1908年6月中旬)であったことも本文から確定する
評論集

評論講座

1926年(大正15年) / 金星堂

1920年代の星湖の評論活動を体系化した書物。自然主義の総括、モーパッサンとフローベールの再評価、日本文学の近代化の総点検――大正末の文芸批評の立場の一つとして、農民文藝会・民衆芸術運動とも接続する。

◇ 書誌情報:書肆田高「評論講座/中村星湖」
評論

農民劇場入門

1927年(昭和2年) / 春陽堂

星湖の農民文学運動・民衆芸術運動における代表的評論書。犬田卯を中心とする農民文藝会、白鳥省吾の農民詩運動が最盛期を迎える時期に、農村と劇場芸術の接続可能性を論じる理論書として刊行。雑誌『農民』は同年に新潮社から創刊された。

◇ NDLサーチで現存確認
回顧評論

自然主義運動の回顧

1927年(昭和2年)6月 / 『早稲田文学』

自然主義運動のただ中にいた当事者本人が、20年後の視点から「あの時、自分たちは何をしていたか」を回顧した評論。大正末〜昭和初の「自然主義は終わった」論壇に対して、星湖が自然主義の生き証人として果たした役割が確認できる一篇。

◇ 『早稲田文学』1927年6月号
新聞連載

詩人独歩と語る

1927年(昭和2年)4月26日〜5月5日 / 『報知新聞』連載

独歩没後19年の節目に、星湖が新聞で連載した回想評論。南湖院の思い出を新聞読者に向けて改めて語り直し、独歩像の「語り継ぎ」を担う。1934年の独歩記念碑建立運動の思想的前段に位置する。

◇ 『報知新聞』1927年4月26日〜5月5日
評論

国木田独歩

1934年(昭和9年)1月 / 『日本文学講座 第十一巻 明治文学篇』改造社

改造社『日本文学講座』明治文学篇のなかで独歩の章を星湖が担当。「燎原の火の如き勢ひを以て天下を風靡した自然主義文学の先頭に『詩人独歩』の青白い顔を置いて眺めることはすこしも怪しくない」――日本近代文学の開拓者としての独歩像を理論化した一篇。同年、神奈川県高津町溝ノ口に題字 藤村・碑文 星湖の独歩記念碑が建立される。昭和9年だけで、星湖は独歩論を4本以上発表。

◇ 改造社『日本文学講座 第十一巻 明治文学篇』1934年1月
随筆

独歩記念碑

1934年(昭和9年)7月4日 / 『山梨日日新聞』

独歩「忘れえぬ人々」の舞台高津町溝ノ口の亀屋前庭に、星湖と藤村の共同で記念碑が建立された、その経緯を描いた文。碑の題字は島崎藤村、碑文は中村星湖。若き日の南湖院での一期一会が、26年越しに形として残された出来事。

◇ 『山梨日日新聞』1934年7月4日(同時期『秋田魁新報』1934年9月27・28日「国木田独歩とその頃の文壇」も発表)
文庫解説

新潮文庫の解説 三篇

1938年10月 / 1939年3月 / 1940年5月 / 新潮社

星湖が連続して執筆した新潮文庫の解説:
・『獨歩全集』2「獨歩集」(1938年10月1日)
・島崎藤村『藤村感想集 上巻』(1939年3月31日)
・二葉亭四迷『其面影』(1940年5月14日)
かつて実際に交流(独歩)・訪問(藤村)・選考を受けた(四迷)作家の文庫解説を、本人が書いている――近代文学史のミニチュアのような仕事。

◇ 新潮文庫 各書の奥付により刊行日を確認
晩年の回想

処女作の感想

1953年(昭和28年)8月 / 『現代作家処女作集 早稲田作家篇 第1集』潮書房

星湖の処女作は長篇『少年行』だったため、本集には代わりに「町はづれ」(『早稲田文学』明治41年6月)が再録され、本人が書下ろしの回想を寄せた。45年前の独歩見舞いを 「社を代表して独歩の病気見舞に行つた」 と詳細に振り返る、晩年69歳の星湖自身の証言

◇ 青野季吉・谷崎精二 監修、pp.249-250

翻訳 ― フランス文学の紹介者として TRANSLATIONS

ギ・ド・モーパッサン(1850–1893)の肖像写真、ナダール撮影、1888年
G. de Maupassant
1850–1893
撮影 ナダール(1820–1910)/ 1888年
Wikimedia Commons / Public Domain

星湖のフランス文学翻訳は、ギュスターヴ・フローベール(1821–1880)とギ・ド・モーパッサン(1850–1893)という師弟関係にあった二人のフランス自然主義文学の巨匠を、大正期の日本に紹介するものでした。『月光』『死の如く強し』『我等の心』などモーパッサン翻訳を重ねたのち、1916年、ライフワークとなるフローベール『ボワ゛リー夫人』を刊行。発売禁止・新潮社〈世界文學全集〉入集・渡仏と、一冊の翻訳書が星湖の人生を動かしていきます。

翻訳

月光(げっこう)

1913年(大正2年) / ギ・ド・モーパッサン 作 / 海外文芸社〈海外文芸叢書 第3編〉

星湖によるモーパッサン翻訳の最初期作品。モーパッサン短篇集として海外文芸社の叢書に収められた。これを機に星湖は翌1914年『死の如く強し』を博文館から出し、大正期日本におけるモーパッサン受容の一翼を担う。

◇ モーパッサン翻訳書誌・NDLサーチで書誌確認
翻訳

死の如く強し

1914年(大正3年) / モーパッサン 作 原題 Fort comme la mort(1889) / 博文館〈近代西洋文芸叢書 第4冊〉

モーパッサンの後期長篇。年齢差のある男女の愛と喪失を冷徹に描いた心理小説で、モーパッサン文学の集大成のひとつ。星湖は自然主義から心理小説への推移を、翻訳を通じて日本に紹介した。

◇ モーパッサン翻訳書誌・NDLサーチ
翻訳(代表作)

ボワ゛リー夫人

1916年 / フロオベル 作 / 早稲田大学出版部

フローベール『Madame Bovary』の先駆的な日本語単行全訳。風俗壊乱で発売禁止になり、のちに新潮社〈世界文學全集〉に入集してベストセラーとなった。詳細は本ページ上部「特集 Ⅲ」を参照

◇ 早稲田大学出版部〈近世文學〉1916年6月
翻訳

我等の心(われらのこころ)

1921年(大正10年) / モーパッサン 作 / 天佑社〈モウパッサン全集〉第8巻

モーパッサン最後の長篇の邦訳。星湖の翻訳は大正期の天佑社〈モウパッサン全集〉の重要な一翼を担った。フローベール訳とあわせ、星湖はフランス近代小説の中核を日本語へ翻訳し続けた大正翻訳界の主要人物の一人である。

◇ 天佑社 1921年〈モウパッサン全集〉第8巻
翻訳

三つの物語

1939年(昭和14年) / フローベール 作 / 冨山房〈百科文庫〉

フローベール晩年の短篇集『Trois Contes』(1877)の邦訳。星湖はボヴァリー夫人のあともフローベール作品を翻訳しつづけ、昭和初期に『三つの物語』として冨山房百科文庫に入れた。

◇ 冨山房 1939年〈百科文庫〉

共編・児童文学・作詞 CO-EDITED WORKS, CHILDREN'S STORIES & LYRICS

共編書

文藝百科要義 上・中・下巻

1921年(大正10年)6月 / 相馬昌治(御風)・中村星湖 共編 / 春陽堂

星湖と相馬御風の共同編纂による、文芸一般の百科事典的な書物。両者の盟友関係が書物の形で残った、もっとも動かぬ一次資料。全3巻とも国立国会図書館に現存、デジタルコレクションでインターネット公開中

◇ NDLサーチ「文藝百科要義 上,中,下巻 春陽堂 大正10」/請求記号 338-377
共著

明治文學講習會の記

1933年(昭和8年) / 人見圓吉・中村星湖・川本春野 共著 / 日本女子高等學院 明治文學研究會

星湖が教鞭をとった日本女子高等學院の明治文學研究會として編集した書物。星湖が戦前期に教育者として活動していた時期の、教育と研究を両立する姿勢を示す貴重な一冊。

◇ 近代文献人名辞典(β)「中村星湖」
児童文学

鈴木三重吉『赤い鳥』童話

1919年(大正8年)以降 / 雑誌『赤い鳥』

『早稲田文学』を退社した年から、鈴木三重吉の児童雑誌『赤い鳥』に童話を寄稿。自然主義作家・翻訳家・評論家の顔に加え、児童文学者としての活動もここから始まった。大正〜昭和初期の童話運動の、広い意味での一翼。

◇ 新宿区立図書館「新宿区ゆかりの人物データベース:中村 星湖」(「鈴木三重吉『赤い鳥』に童話を発表」)
作詞

山梨県の小中学校 校歌 作詞

戦後(昭和20年代〜) / 山梨県内 小中学校 多数

戦後の河口村疎開期、村の教育委員長として地域教育に貢献するとともに、県下の小中学校の校歌を多数手がけた。山梨県『ふれあい特集号 vol.36』が「県下の小中学校の校歌の作詞も多数手掛ける」と記録する。文学者の言葉が県民に歌われ続けている、もっとも生きたかたちでの作品群。

◇ 山梨県『ふれあい特集号 vol.36』
QUOTES

名文・名言集 ― 星湖の文章を味わう

小説・評論・随筆・草稿から、中村星湖の 一次資料の言葉 だけを選んで並べました。 出典はすべて刊行年と掲載誌まで確認済みです。作品本文を「つまみ食い」する小さな入口として、気になった一節からさらに深掘りしてください。

郷土と富士
熔岩(ラバ)のくずれの富士の裾は、じつに、広漠たる眺めである――。
『少年行』 冒頭 『早稲田文学』第18号 臨時増刊、1907年5月
文壇デビュー
新代の作家として「一代の興望」を負へる青年詩人の會見 ―― 第一回の會見はかくて終りぬ。
『一瞥したる二文豪』 第四章(島崎藤村訪問の結語) 『早稲田學報』第146号、明治40年4月1日發行
藤村の肖像
三十五六の、卵形の、白面朱唇、髪黄ばみ眉濃き方、一輪郭ひきしまり、悲しき憐れむべき眼線黒みて、しかも子等を失ひ妻を亡くされた。
『一瞥したる二文豪』 ― 島崎藤村 初対面の描写 『早稲田學報』第146号、明治40年4月1日發行
自然主義と象徴主義
真の自然主義の到り着くべき所は、物心一如のサムボリスムでなければならない。
『モオパッサンの象徴主義』 『早稲田文学』1914年1月
独歩への追憶
田淵一樹といへば、「あゝ、あの四十を幾つも越さずに病気で死んだ小説家か」と明治末期の文学に心を寄せてゐる人は直ぐに合点するであらう。
『彼等は踊る』 冒頭(田淵=国木田独歩) 『太陽』秋季大付録、博文館、1916年9月
時代を踊る
酔ふ者、踊る者、叫ぶ者、それ等すべては各自に酔ひたいから酔ひ、踊りたいから踊り、叫びたいから叫んだのだ……けれども、あの時死んだのが田淵氏でなくて他の一人であつたならば何うであらう?
『彼等は踊る』 末尾 ― 独歩の死と自然主義運動 『太陽』秋季大付録、博文館、1916年9月
独歩との一期一会
私は独歩にはたゞ一度逢つた切りである、それも彼が死ぬ一週間前位ゐの、極きはどい時にだつた。……相馬御風君と私とで、早稲田文学社を代表して見舞ひに行つた、それが初見参でもありお別れでもあつた。
『独歩について』 『文章世界』博文館、1919年6月
詩人 独歩
燎原の火の如き勢ひを以て天下を風靡した自然主義文学の先頭に、「詩人独歩」の青白い顔を置いて眺めることはすこしも怪しくない。
『国木田独歩』 『日本文学講座』第十一巻 明治文学篇、改造社、1934年1月
郷土思想
都市には文明はあるが文化に乏しく、地方は文明に遠ざかつてゐるが文化がある。何もないやうな所に、人間が継承してきた宝がひそんでゐる。
『文化は郷土より』 要旨 大智書房、1943年4月5日(山梨県立文学館「中村星湖展」2024年 解説より)
晩年の自負
私の独歩に関する著作のうちで、もつとも気に入つたのは、独歩がまさに亡くならうとする頃の茅ヶ崎南湖院附近を舞台とした短篇小説「彼等は踊る」だつた。
草稿「国木田独歩のこと(B)」 まえ書き 山梨県立文学館 蔵 資料番号 230001720、1960年代後半 執筆
45年後の回想
社を代表して独歩の病気見舞に行つた。そして私はその時独歩と最初の会見をした。(その時の顛末を私は後に「彼等は踊る」と題する作中に詳しく書き込んだ)
『処女作の感想』 『現代作家処女作集 早稲田作家篇 第1集』潮書房、1953年8月
同時代の星湖評
時代の壁を打破するやうな破壊力こそなかつたが、その温厚な人柄は…… 耐へる力を持つた長距離選手として堅実に前進した。
紅野敏郎「まえがき」 『精選 中村星湖集』早稲田大学出版部、1998年11月
FRIENDSHIPS

交友録 ― 文豪たちと中村星湖

星湖本人の文章・書簡・写真・共同刊行物・展示史料で裏づけができる交友関係のみを、関係の強度順に並べました。各エピソードはいずれも、対応する一次資料の出典を末尾に示しています。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の肖像、1892年 熊本にて、撮影:富重利平(1837–1922)
1892年 熊本。撮影 富重利平
Wikimedia Commons / Public Domain
小泉 八雲
Lafcadio Hearn / 1850–1904
邂逅のみ(講義は未聴講)

わずか5ヵ月の交差 ― 聴講ではなく「一瞥」

小泉八雲は1903年3月に東京帝国大学を退職し、1904年4月より早稲田大学 文学科英文科の講師として迎えられた。週4時間は講師として課された週あたりの担当である。同年9月26日に心臓麻痺で急逝し、わずか5ヵ月の在職に終わった。中村星湖は〈『早稲田學報』第146号・「一瞥したる二文豪」〉本文のなかで、当時八雲の講義(聴講)には出ていなかったこと、〈来年になったら先生の文學史を聴く〉と思っていたこと、九月半ばの一瞥がなければ生涯に一度も対面しなかったであろうことを、本人の言葉で述べている。

星湖による同時代証言「一瞥したる二文豪」(明治40年)

八雲の死から2年半後、卒業を目前に控えた星湖は、『早稲田學報』第146号(明治40年4月1日發行)に随筆「一瞥したる二文豪」を発表し、上記のとおり講義を受けず一瞥のみだったことと、急逝・葬儀を克明に記した。

来年になったら先生の文學史を聴くことが出来るとばかり思って居た。…… 若しあの一瞥がなかったら――自分は生きて一度も先生を見ずにしまった事であろう。
― 中村星湖「一瞥したる二文豪」本文(意思を損なわない範囲の抜粋・改行。底本は同号。丁「三四」付近)

第二章〈二〉では、その一瞥の日から二十日足らずのうちに9月26日に心臓麻痺で没し、9月30日に牛込市ヶ谷の瘤寺で葬儀が営まれたこと、ならびに推した作家や大講堂での話のようすなどが続くが、これらは聴講生として週々座席についた連続講義のノートではない。八雲晩年の随筆「犬の聲」への感応は、講義の有無とは別軸の共鳴である。

文学的共鳴 ―「犬の聲」から藤村へ

第三章では、八雲の随筆「犬の聲」に深く感応していたこと、そしてその余韻が、八雲旧居の近所・大久保に移り住んでいた島崎藤村への関心と訪問行動に結びついたことが、1906年11月11日の日記と合わせて記録されている。

一次資料: ・中村星湖「一瞥したる二文豪」『早稲田學報』第146号、明治40年4月1日發行
・『早稲田大学百年史』第二巻 第四編 第八章「小泉八雲を迎える」
・『早稲田大学百五十年史』第一巻 第二部 第一章 第四節
・早稲田大学歴史館 所蔵「早稲田大学本部書類」5-004-047「教員認可願(大学部文学科英文科)〔小泉八雲〕」/5-025-053「小泉八雲 小林行昌」(「九月廿六日逝去」付記)
島崎藤村の肖像(1943年以前)
1943年以前。撮影者不詳
典拠:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
Wikimedia Commons / PD-Japan-oldphoto
島崎 藤村
1872–1943
訪問 ・ 交流

1906年 浅草区新片町の藤村宅を訪ねる

在学中の星湖は、八雲「犬の聲」への感応から、八雲旧居の近所・大久保の藤村宅へ手紙を出すようになる。「一瞥したる二文豪」第三〜四章で、星湖は藤村の住居変遷を具体的に記録している。

  • 1905年春:藤村、「北信の高原より東京に入って、大久保の某所に隠棲」
  • 1906年秋:藤村、浅草区・新片町(隅田川に近い)へ転居。「今度は水のある近所へ引越しました」との手紙を受け取る
  • 1906年11月11日:「丁度一週間以前にも行きしが、不在にて逢はで帰りしが本意なさに、今日はまた島崎氏を柳橋なる其実に訪ふ」――日記形式で訪問を記録

対面時の藤村については「三十五六の、卵形の、白面朱唇、髪黄ばみ眉濃き方、一輪郭ひきしまり、悲しき憐れむべき眼線黒みて、しかも子等を失ひ妻を亡くされた」と描写、「所謂新代の作家として『一代の興望』を負へる青年詩人の會見――第一回の會見はかくて終りぬ」と結んでいる。

晩年の関係 ― 独歩記念碑で再び協働

1934年、神奈川県高津町溝ノ口の国木田独歩記念碑建立に際し、星湖は島崎藤村に題字を依頼し、自身は碑文を執筆している。約30年後、二人の盟友的関係が公的な形で結実した出来事といえる。

一次資料: ・中村星湖「一瞥したる二文豪」『早稲田學報』第146号、明治40年4月1日發行
・山梨県立文学館〈資料翻刻〉「中村星湖宛書簡(島崎藤村 柳田国男 加藤武雄)」『山梨県立文学館館報』通巻23号、1996年1月、p.9
・中村星湖「国木田独歩とその頃の文壇」『秋田魁新報』1934年9月27・28日
・中村星湖「解説」、島崎藤村『藤村感想集 上巻』新潮社〈新潮文庫〉、1939年3月31日
相馬御風、早稲田大学創立30周年式典当日、1912年(明治45年)
1912年 早稲田大学創立30周年式典
糸魚川市「御風の生涯」掲載写真
旧著作権法 保護期間満了 / Public Domain
相馬 御風
1883–1950 / 本名 相馬 昌治
盟友

もっとも多角的に裏づけが取れる盟友

中村星湖と相馬御風の関係は、本サイトの調査範囲でもっとも多くの一次資料で裏打ちされる。その接点は6項目にわたる。

① 早稲田大学英文科 在学期間の重なり(1904〜06)

両者は早稲田大学英文科で在学時期が重なる。御風は1883年新潟県糸魚川町の生まれで、同じく島村抱月の門下。

② 早稲田文学社での同僚関係(1906〜19)

御風は1906年(明治39年)の早稲田大学卒業と同時に、片上天弦らとともに早稲田文学社へ入り『早稲田文学』編集を担当した(糸魚川市公式「御風の生涯」)。星湖は翌1907年卒業後、島村抱月の推挙で同社の記者(社員)となり、御風に合流。以後、吉江孤雁も交え『早稲田文学』を自然主義文学の牙城として支えた。

③ 1908年6月 茅ヶ崎・南湖院で国木田独歩を共同見舞い

病床の国木田独歩を、早稲田文学社を代表して星湖と御風が連れ立って見舞った。独歩はその1週間ほど後(同月23日)に没した。

私は独歩にはたゞ一度逢つた切りである、それも彼が死ぬ一週間前位ゐの、極きはどい時にだつた。……相馬御風君と私とで、早稲田文学社を代表して見舞ひに行つた、それが初見参でもありお別れでもあつた。
― 中村星湖「独歩について」『文章世界』大正8年6月

④ 1916年9月 短編「彼等は踊る」で御風をモデルに

独歩見舞いの体験を題材にした星湖の短編「彼等は踊る」(『太陽』秋季大付録、大正5年9月)で、主人公に同行する同僚「細井」のモデルは相馬御風(星湖の晩年の回想および草稿により確定)。

⑤ 1921年6月 『文藝百科要義』 全3巻を共編

二人の共同作業が書物の形で現存する最大の一次資料。春陽堂刊、上・中・下の3巻構成。現在は国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開中。

⑥ 共通の師 島村抱月への深い傾倒

両者の「早稲田文学社」入社はいずれも抱月の意向。自然主義文学の立場は、この共通の師から受け継いでいる。

一次資料: ・糸魚川市公式「御風の生涯」(糸魚川歴史民俗資料館=相馬御風記念館) city.itoigawa.lg.jp/4799.htm
・中村星湖「独歩について」『文章世界』大正8年6月
・中村星湖「彼等は踊る」『太陽』大正5年9月 秋季大付録
・中村星湖「処女作の感想」『現代作家処女作集 早稲田作家篇 第1集』潮書房、昭和28年8月、pp.249-250
・中村星湖・相馬昌治 共編『文藝百科要義』上・中・下巻、春陽堂、1921年6月
・王憶雲「中村星湖「彼等は踊る」論 ―独歩に関する言説を手がかりに―」『台灣日語教育學報』第42号、2024年6月
国木田独歩の肖像、1890年代
1890年代。鎌倉文学館所蔵
Wikimedia Commons / PD-Japan-oldphoto
国木田 独歩
1871–1908
一期一会 ・ 記念碑建立

たった一度の対面が生涯の主題になった

星湖は独歩とたった一度だけ対面した。その1908年6月の南湖院訪問が、小説「彼等は踊る」、随筆「独歩について」、昭和9年の記念碑建立、そして晩年の未完草稿に至るまで、星湖の生涯にわたる主題となる。

博文館 写真部が撮った集合写真(1908年6月 南湖院)

田山花袋と前田晁が博文館写真部のカメラマンを呼んで撮影した有名な集合写真。独歩を囲むのは、田山花袋・前田晁に加えて、岩野泡鳴・正宗白鳥・中村星湖・相馬御風・吉江孤雁・小杉未醒・小栗風葉・真山青果の計11名。写真は山梨県『ふれあい特集号 vol.36』(山梨大学 齋藤康彦 監修)に掲載され、キャプションに次のように配置が記されている:「前列中央が中村星湖。その後ろが国木田独歩、写真左端が前田晁、同列右端が田山花袋。星湖の左上が正宗白鳥」

山梨県『ふれあい特集号 vol.36』p.21 ― 若き日の中村星湖の肖像(1906年)、南湖院で国木田独歩を見舞った11名の集合写真(1908年6月)、坪内逍遥・島村抱月・二葉亭四迷の肖像を含む紙面
図版引用(著作権法第32条) 山梨県『ふれあい特集号 vol.36』p.21(記事監修:齋藤康彦/山梨大学 教育人間科学部 教授)より引用。 同紙面には、
① 若き日の中村星湖(1906年・22歳)、
② 1908年6月 南湖院で独歩を見舞った文学者11名の集合写真(前列中央が星湖、その後ろが独歩、写真左端が前田晁、右端が田山花袋、星湖の左上が正宗白鳥)、
③ 師となった坪内逍遥・島村抱月・二葉亭四迷の肖像
が一括掲載されている。
出典:山梨県『ふれあい特集号 vol.36』(山梨県観光部観光資源課 発行、2009年)p.21 / デジタルブック版 pref.yamanashi.jp/ebook/fureai/vol36_2
本図版の掲載は、著作権法第32条「引用」の規定に基づくもの。本サイトの中村星湖に関する学術的解説を「主」とし、当該紙面を「従」として必要最小限の範囲で引用、出典を明示している。地方自治体公刊物であり公表済み資料。

「彼等は踊る」(1916)登場人物対応表

作中人物モデル
田淵一樹(死にゆく小説家)国木田 独歩
園田(語り手「私」)中村 星湖 本人
細井(園田の同僚)相馬 御風
阿部(田淵の親友)田山 花袋
松本(硯友社派小説家)小栗 風葉
鈴木(画家)小杉 未醒

1934年 神奈川・溝ノ口の独歩記念碑

独歩「忘れえぬ人々」の舞台・高津町溝ノ口の雑貨店亀屋(主人・鈴木慶蔵は作中「吉蔵」のモデル)前庭に、題字 島崎藤村、碑文 中村星湖の記念碑が1934年7月に建立された。現在は川崎市立高津図書館前に移設。この建立を機に星湖は、昭和9年だけで独歩論を4本以上、異なるメディアで発表している。

未発表草稿3点(山梨県立文学館蔵)

資料番号概要
230000802「国木田独歩のこと」草稿(5枚) / 副題「自作小説『彼等は踊る』の部分的抄出と注釈」/ 1969年頃 執筆・中絶
230001720「国木田独歩のこと」草稿(4枚) / 副題「自作小説『彼等は踊る』の注釈」/ 1967年以降 執筆・中絶
230001336「国木田独歩の追憶」原稿 / 1934年7月30日 東京中央放送局(JOAK)ラジオ放送原稿
一次資料: ・中村星湖「彼等は踊る」『太陽』大正5年9月/「独歩について」『文章世界』大正8年6月/「詩人独歩と語る」『報知新聞』昭和2年4月26日〜5月5日/「国木田独歩」『日本文学講座 第十一巻』改造社、昭和9年1月/「独歩記念碑」『山梨日日新聞』昭和9年7月4日/「国木田独歩とその頃の文壇」『秋田魁新報』昭和9年9月27・28日/「処女作の感想」潮書房、昭和28年8月
・田山花袋『東京の三十年』博文館、大正6年6月
・山梨県立文学館 所蔵 草稿 3点(230000802/230001720/230001336)
・王憶雲「中村星湖「彼等は踊る」論」『台灣日語教育學報』第42号、2024年6月
三師
坪内逍遥・島村抱月・二葉亭四迷
1859–1935 / 1871–1918 / 1864–1909
師 ・ 選者

早稲田の恩師たち

早稲田大学英文科では坪内逍遥と島村抱月に学んだ。懸賞小説『少年行』の選者は二葉亭四迷と島村抱月。卒業後の『早稲田文学』記者採用は島村抱月の推挙によるものであり、星湖の文学的キャリアの骨格は、この三人の師と結びついている。

晩年、星湖は二葉亭四迷『其面影』の新潮文庫解説(1940年5月14日)を執筆し、かつて自分を選んでくれた恩師に公に応答している。

一次資料: ・『早稲田文学』第18号 臨時増刊、明治40年5月(懸賞長編小説 当選号)
・新宿区立図書館「新宿区ゆかりの人物データベース:中村 星湖」(「卒業後は島村抱月の推めで『早稲田文学』の記者となり」)
・中村星湖「解説」、二葉亭四迷『其面影』新潮社〈新潮文庫〉、昭和15年5月14日
柳田国男の肖像、『毎日グラフ』1951年10月10日号掲載
1951年。毎日新聞社『毎日グラフ』10/10号
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柳田 国男
1875–1962
書簡 ・ 献辞

郷土文化思想での呼応

柳田国男から中村星湖宛ての葉書3通および関連書簡の翻刻が、『山梨県立文学館館報』第23号(1996年1月)に収録されている。昭和18年(1943年)2月8日付葉書の画像は、山梨県立文学館編『富士百景――その文学と美』(2001年)p.18にも掲載。

星湖の著書『文化は郷土より』(大智書房、1943年)には柳田国男への献辞が添えられており、郷土文化・民俗への関心が両者の思想的接点となっていたことを示している。

一次資料: ・山梨県立文学館館報 通巻23号、1996年1月
・影山正美「柳田国男と中村星湖――書簡類その他」『甲斐』通巻113号、山梨郷土研究会、2007年5月
・国立国会図書館レファレンス協同データベース 1000343457
夏目漱石の肖像、1912年9月、小川一真 撮影
1912年9月。撮影 小川一真(1860–1929)
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夏目 漱石
1867–1916
書簡 ・ 文芸欄採択

1911年7月25日付 漱石書簡 ― 東京朝日新聞文芸欄の採択

夏目漱石は1907年に朝日新聞社に入社し、翌1908年に「東京朝日新聞」文芸欄を自ら創設してその編集を担っていた。1911年、『三田文学』に掲載された久保田万太郎の小説「朝顔」の評価をめぐり、漱石門下の小宮豊隆と中村星湖のあいだで論争が起こる。星湖は自身の反論を文芸欄に寄せたいと漱石に申し入れ、7月25日、漱石はこれを了解する書簡を星湖に送った

文字数を伝えたうえで、「小宮を相手にする意味でなく読者を相手にする御積(おつもり)にて御執筆被下候はゞ仕合せに候」
― 夏目漱石から中村星湖宛 書簡(1911年7月25日付)

論争相手そのものではなく、読者を相手に論を立てよという、漱石らしい静かな指示。この書簡は山梨県立文学館蔵で、2024年「生誕140年 歿後50年 中村星湖展」の目玉展示の一つとなった。星湖が当時、新進の批評家として漱石周辺の文学ジャーナリズムの中核に直接関与していたことを示す、もっとも動かぬ一次資料。

一次資料: ・夏目漱石から中村星湖宛 書簡(1911年7月25日付)山梨県立文学館 蔵
・山梨県立文学館「生誕140年 歿後50年 中村星湖展」解説(ARTPR掲載プレスリリース)
・久保田万太郎「朝顔」『三田文学』1911年(背景資料)
田山花袋の肖像、1909年
田山花袋、1909年(撮影者不詳)
出典:『田山花袋全集』3(文泉堂、1973)
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田山花袋・前田晁 ほか
南湖院に集った文学者たち
同時代作家

南湖院集合写真の同志たち

1908年6月、茅ヶ崎・南湖院で撮られた独歩を囲む集合写真に、星湖とともに写る文学者たち。以降、それぞれと長い交流を保った。

  • 田山花袋(1871–1930)― 1930年の花袋の葬儀に柳田国男らとともに参列、集合写真あり(山梨県立文学館編『前田晁 田山花袋 窪田空穂』1997年、p.68)。
  • 前田晁(1879–1961)― 1925年の山人会結成以来の盟友。『山梨日日新聞』文壇欄の共同選者。
  • 正宗白鳥・岩野泡鳴・小杉未醒・小栗風葉・真山青果・吉江孤雁も南湖院の集合写真に同席。
一次資料: ・田山花袋『東京の三十年』博文館、大正6年6月
・山梨県『ふれあい特集号 vol.36』に集合写真掲載
・山梨県立文学館編『前田晁 田山花袋 窪田空穂――雑誌「文章世界」を軸に』1997年
秋田
秋田 雨雀
1883–1962
学友

早稲田在学中の学友

「早稲田大学に進み相馬御風・秋田雨雀らと知り合う」(富士山NET/山梨日日新聞社 公式記述)。秋田雨雀との関係を示す一次史料は本調査の範囲では限定的だが、相馬御風とセットで星湖の早稲田時代の交友の一つとして記録されている。

一次資料: ・富士山NET「中村星湖と富士」(山梨日日新聞社)
太田
太田 覚眠
1866–1944
仏教・文芸交流

「死人か馬鹿か」 ― 覚眠とのやりとり

真宗大谷派の僧侶でロシア布教に従事した太田覚眠との交流。松本郁子「「死人か馬鹿か」――中村星湖と太田覚眠の交流をめぐって――」(『資料と研究』第14輯、山梨県立文学館、2009年、pp.108-112)に詳しい検証がある。

一次資料: ・山梨県立文学館『資料と研究』第14輯、2009年
會津八一の肖像、1941年6月9日 早稲田大学にて
1941年6月9日。早稲田大学
出典:早稲田大学写真データベース
Wikimedia Commons / PD-Japan-oldphoto
會津 八一
1881–1956
未確認

「早稲田の三羽烏」説は一次資料で裏付けられない

生成AIや孫引きエッセイ等で散見される、「會津八一・相馬御風・中村星湖が『早稲田の三羽烏』と呼ばれた」「坪内逍遥を共通の師として三人が親しく交わった」といった記述は、本サイトの調査範囲では一次資料で裏付けることができませんでした。

現時点で確実に言えるのは次の4点です:

  1. 在学期間の重なり:會津八一(1906年卒)と中村星湖(1907年卒)は、早稲田大学英文科で 1904〜1906年 在学が重なっていた。
  2. 相馬御風と會津八一:同期(1906年卒)で、「40年来の友情」(新潟市會津八一記念館)。
  3. 星湖と八一の直接的交友:本人著作・書簡・講演記録のいずれにも、八一を主題とした叙述は見いだせなかった。
  4. 山梨県立文学館翻刻の星湖宛書簡(館報 通巻23号、1996年)には島崎藤村・柳田国男・加藤武雄が含まれるが、會津八一は含まれない

したがって、本サイトは八一との関係については「未確認」として保留します。今後、山梨県立文学館(甲府)・早稲田大学會津八一記念博物館・新潟市會津八一記念館での原資料調査が必要な領域です。

現地調査が望ましい資料: ・新潟市會津八一記念館「相馬御風」 aizuyaichi.or.jp/ja/person/529/
・山梨県立文学館所蔵 中村星湖宛書簡(館報通巻23号、1996年1月)
・早稲田大学會津八一記念博物館の八一書簡群
BIBLIOGRAPHY

著作完全リスト ― 年次順 単行本書誌

中村星湖が生前に刊行した 単行本、および没後に編まれた重要な作品集を、刊行年順に一覧にしました。
各行の書誌は国立国会図書館サーチ・近代文献人名辞典・紅野敏郎編『精選 中村星湖集』年譜(早稲田大学出版部、1998年)と照合済みです。

小説・短篇集 評論・随筆 翻訳 共編・共著
刊行年 書名 種別 刊行元 備考
1908
明治41
半生はんせい 短篇集 早稲田文学社 第一短篇集。NDLデジタルコレクションで全文公開(pid/887884)
1910.4
明治43
星湖集せいこしゅう 短篇集 東雲堂 第二短篇集。号を冠した唯一の表題
1910.10
明治43
かげ 長篇 今古堂 自然主義作家として脚光のピーク
1913
大正2
月光モーパッサン 作 翻訳 海外文芸社〈海外文芸叢書 第3編〉 星湖のモーパッサン翻訳 第一作
1913.8
大正2
漂泊ひょうはく 短篇集 春陽堂 第三短篇集
1914
大正3
死の如く強しFort comme la mort/モーパッサン 作 翻訳 博文館〈近代西洋文芸叢書 第4冊〉 モーパッサン後期長篇の邦訳
1914.10
大正3
女のなかおんなのなか 短篇集 早稲田文学社 第四短篇集。表題作は『明治文學全集72』に再録
1915
大正4
少年行しょうねんこう 長篇 植竹書院 『早稲田文学』初出(1907年)からの単行本化
1916.6
大正5
ボワ゛リー夫人Madame Bovary/フロオベル 作 翻訳 早稲田大学出版部〈近世文學〉 日本語単行全訳の先駆。風俗壊乱で発売禁止
1919.7
大正8
失はれた指輪うしなわれた ゆびわ 短篇集 天佑社 第五短篇集。『早稲田文学』退社の年
1921.6
大正10
文藝百科要義 上・中・下巻相馬御風との共編 共編 春陽堂 NDLデジタルコレクションで全3巻公開(請求記号 338-377)
1921
大正10
我等の心モーパッサン 作 翻訳 天佑社〈モウパッサン全集〉第8巻 モーパッサン最後の長篇の邦訳
1926
大正15
評論講座ひょうろん こうざ 評論集 金星堂 大正末期の批評を体系化
1927
昭和2
農民劇場入門のうみん げきじょう にゅうもん 評論 春陽堂 農民文学・民衆芸術運動の理論書
1927.8
昭和2
ボヴァリイ夫人/女の一生廣津和郞と合冊 翻訳 新潮社〈世界文學全集〉第20篇 ベストセラー化。印税で翌年渡仏
1933
昭和8
明治文學講習會の記人見圓吉・川本春野と共著 共著 日本女子高等學院 明治文學研究會 教育者としての活動の記録
1939
昭和14
三つの物語Trois Contes/フローベール 作 翻訳 冨山房〈百科文庫〉 フローベール晩年の短篇集
1943.4
昭和18
文化は郷土よりぶんかは きょうどより 随筆集 大智書房 柳田国男への献辞あり(凡例 p.1/目次 p.6)
1969.5
昭和44
『明治文學全集72』水野葉舟・中村星湖・三島霜川・上司小劍集/吉田精一 編 作品集 筑摩書房(菊判434頁) 星湖の短篇8作(驕兒・村の西郷・一切の事・畑・粉負ひ・通過・蛆蟲のやうに・女のなか)収録。中村孤月/吉田精一 解説、年譜:山田清吉・榎本隆司・伊狩章・紅野敏郎 編
1998.11
平成10
『精選 中村星湖集』紅野敏郎 編 作品集 早稲田大学出版部(A5 478頁、限定300部) 星湖の代表作を一冊で読める、もっとも入手しやすい現代版選集

補足: 本表は 単行本・作品集 の一覧です。雑誌・新聞への寄稿(『新小説』『太陽』『早稲田文学』『文章世界』『報知新聞』『東京朝日新聞』『秋田魁新報』『山梨日日新聞』ほか)、新潮文庫 解説 3篇(1938-1940)、山梨県 小中学校 校歌(戦後多数)などは「作品紹介」セクションに分けて収録しています。未確定の書誌は、山梨県立文学館 常設「中村星湖コーナー」で一次資料を直接確認できます。

GLOSSARY

用語ミニ辞典 ― やさしく知る明治・大正文壇

本サイトに出てくる文学史・雑誌名・結社名・地名・制度を、初めて読む方にもわかるようにやさしくまとめました。各語の説明は、国語辞典・文学辞典・博物館解説を下敷きに、中村星湖との関連だけを補足しています。

自然主義 しぜんしゅぎ
ありのままの現実や人間心理を、飾らず書こうとする文学運動。19世紀末フランス(ゾラなど)から日本に伝わり、明治末〜大正初期の文壇の中心思潮となった。星湖の『少年行』や短篇群、評論『自然主義運動の回顧』も、この流れの代表例。
早稲田文学 わせだぶんがく
早稲田大学系の文芸雑誌。1891年創刊/1906年 島村抱月らにより再刊。自然主義文学の最大拠点で、星湖と相馬御風は再刊時からの主要メンバー。『少年行』はこの雑誌の懸賞で一等入選。
ローカル・カラー 郷土色
作品の舞台となる土地の自然・風俗・方言の雰囲気を、強く前面に出す作風。星湖の『少年行』が富士山麓の風景を徹底的に描いたため、この語は星湖論で必ず引かれる。
モデル小説 モデルしょうせつ
実在の人物を下敷きにした小説。名前を変えていても、読者は「元ネタ」を推測して読む。星湖の『彼等は踊る』は国木田独歩の臨終を題材にしたモデル小説の代表例で、田山花袋『東京の三十年』もこれを事実の補完資料として引用した。
象徴主義(サムボリスム) しょうちょうしゅぎ
見えないもの(心・精神・理念)を、具体的なものごと(象徴)を通じて暗示する文学運動。フランスで19世紀後半に生まれた。星湖は1914年『モオパッサンの象徴主義』で、「自然主義の行き着く先は象徴主義」と論じた。
物心一如 ぶっしん いちにょ
「物(もの)」と「心(こころ)」が別々でなく一体であるという思想。もとは仏教用語。星湖は自然主義+象徴主義の最終形として、この言葉を使った。
硯友社/戸塚党 けんゆうしゃ/とつかとう
尾崎紅葉らの文学結社〈硯友社〉(1885-)の流れをくむグループ。小栗風葉・真山青果らが「戸塚党」と呼ばれた。『彼等は踊る』で酒宴に興ずる「松本(風葉)」は、この党の首魁というイメージで描かれる。
南湖院 なんこいん
神奈川県茅ヶ崎にあった結核療養所。1908年6月23日、国木田独歩が36歳で死去した場所。星湖は独歩逝去の約1週間前、相馬御風と連れ立って見舞いに来ており、その体験が小説『彼等は踊る』になった。
農民文藝会 のうみん ぶんげいかい
犬田卯(いぬだ うすい)らを中心に 1924年(大正13)に結成された文芸結社。農村に根ざした文学を目指し、星湖も創立14人の一人。共著『農民文芸十六講』(1926)がある。星湖の評論『農民劇場入門』(1927)もこの流れ。
民衆芸術運動 みんしゅう げいじゅつ うんどう
大正期に起こった、芸術を一部の教養人ではなく広く一般の民衆に開こうとする運動。白鳥省吾らが牽引。星湖は評論家として、農民文学・農民劇場論でこの運動に応答した。
山人会 さんじんかい
山梨県出身の在京文化人による親睦・文化振興団体。星湖は戦前から関わり、戦後は会長格として活動。1987年、中村星湖文学賞を制定した。2022年に解散(同賞は通算35回で終了)。
五湖文化 ごこ ぶんか
星湖が1940年(昭和15)に創刊・編集した、富士五湖地域の文化を発信する雑誌。郷土文化運動の拠点となった出版物で、『文化は郷土より』(1943)の思想的バックボーン。
新小説 しんしょうせつ
春陽堂が1896年に創刊した文芸雑誌。明治後期〜大正にかけての代表的な文芸誌。1906年の『新小説』懸賞で星湖「盲巡礼」が一等入選し、これが事実上の文壇デビューとなった。
太陽 たいよう
博文館が1895年に創刊した総合雑誌。『彼等は踊る』は1916年9月「秋季大付録」として本誌に掲載された。
赤い鳥 あかいとり
鈴木三重吉が1918年(大正7)に創刊した児童雑誌。芥川龍之介・北原白秋ら多くの作家が童話・童謡を寄せた。星湖も1919年以降、童話を寄稿し、児童文学者としての顔を持つようになる。
世界文學全集 せかい ぶんがく ぜんしゅう
新潮社が1927年(昭和2)に刊行開始した円本全集。1冊1円で世界の名作を届け、円本ブームの火付け役となった。星湖訳『ボヴァリイ夫人』は第20篇(廣津和郞 訳『女の一生』と合冊)として収録、ベストセラー化した。
産屋ケ崎 うぶやがさき
富士河口湖町にある、河口湖 北岸の小さな岬。1957年(昭和32)、ここに「少年行」碑が建立された。「熔岩のくずれの富士の裾は…」の冒頭が刻まれている。
山梨県立文学館 やまなしけんりつ ぶんがくかん
1989年開館、甲府市貢川の芸術の森公園内。長男 中村顕 氏による資料寄贈で中村星湖コーナーが設けられ、自筆原稿・書簡・蔵書・パリの油彩画などを収蔵。2024年には「生誕140年 歿後50年 中村星湖展」を開催。
中村星湖文学賞 なかむらせいこ ぶんがくしょう
山人会が1987年に制定、2022年まで通算35回授賞した文学賞。山梨県ゆかりの作家・山梨を題材にした作品(小説・戯曲・ノンフィクション・文芸評論・伝記など)を対象とした。
レファレンス協同データベース レファきょう
国立国会図書館が運営する、全国の図書館のレファレンス事例を集めたデータベース。本サイトでは、山梨県立文学館・山口県立山口図書館などの星湖関連事例(1000329211/1000343457/1000368950 等)を複数参照している。 公開URL:crd.ndl.go.jp
PRIMARY SOURCES

一次資料・出典一覧

本サイトの記述が依拠した一次資料と、それを扱った学術文献を種別ごとに示します。

Ⅰ. 本人執筆の一次資料

  • 中村星湖「一瞥したる二文豪」『早稲田學報』第146号、明治40年4月1日發行
  • 中村星湖「少年行」『早稲田文学』第18号 臨時増刊、1907年5月
  • 中村星湖『半生』早稲田文学社、1908年12月
  • 中村星湖「モオパッサンの象徴主義」『早稲田文学』1914年1月号
  • 中村星湖「五月の小説(三)」『時事新報』1914年5月10日
  • フロオベル 著/中村星湖 訳『ボワ゛リー夫人』早稲田大学出版部、1916年6月14日
  • 中村星湖「彼等は踊る」『太陽』秋季大付録、博文館、1916年9月
  • 中村星湖「独歩について」『文章世界』博文館、1919年6月号
  • 中村星湖・相馬昌治 共編『文藝百科要義』上・中・下巻、春陽堂、1921年6月
  • 中村星湖「かくれ沼」『東京朝日新聞』1919年10月24日〜1920年1月20日(全87回、挿絵 池田輝方)
  • 中村星湖『評論講座』金星堂、1926年
  • 中村星湖『農民劇場入門』春陽堂、1927年
  • フロオベル 著/中村星湖・廣津和郞 共訳『ボヴァリイ夫人/女の一生』新潮社〈世界文學全集〉第20篇、1927年8月
  • 中村星湖「詩人独歩と語る」『報知新聞』1927年4月26日〜5月5日
  • 中村星湖「自然主義運動の回顧」『早稲田文学』1927年6月
  • 中村星湖「国木田独歩」『日本文学講座 第十一巻 明治文学篇』改造社、1934年1月
  • 中村星湖「独歩記念碑」『山梨日日新聞』1934年7月4日
  • 中村星湖「国木田独歩とその頃の文壇」『秋田魁新報』1934年9月27・28日
  • 中村星湖「国木田独歩論」『弘文』1934年12月
  • 中村星湖「解説」『獨歩全集』2 「獨歩集」新潮社〈新潮文庫〉、1938年10月1日
  • 中村星湖「解説」島崎藤村『藤村感想集 上巻』新潮社〈新潮文庫〉、1939年3月31日
  • 中村星湖「解説」二葉亭四迷『其面影』新潮社〈新潮文庫〉、1940年5月14日
  • 中村星湖『文化は郷土より』大智書房、1943年4月5日
  • 中村星湖「処女作の感想」『現代作家処女作集 早稲田作家篇 第1集』潮書房、1953年8月

Ⅱ. 未発表草稿・書簡・所蔵品(山梨県立文学館 蔵)

  • 夏目漱石 → 中村星湖 宛 書簡(1911年7月25日付)―― 2024年「中村星湖展」出展
  • 「国木田独歩のこと」草稿(資料番号 230000802)
  • 「国木田独歩のこと」草稿(資料番号 230001720)
  • 「国木田独歩の追憶」原稿(資料番号 230001336)―― 1934年JOAKラジオ放送原稿
  • 〈資料翻刻〉「中村星湖宛書簡(島崎藤村・柳田国男・加藤武雄)」『山梨県立文学館館報』通巻23号、1996年1月、p.9
  • 「少年行」自筆原稿(『早稲田文学』第18号 1907年5月掲載)
  • 中村星湖 画「パリの下宿の窓から見た風景」(油彩、1928年)
  • スクラップブック(全26冊)― 『資料と研究』で調査報告が連載中
  • 早稲田大学在学中の星湖(1906年12月、22歳)写真

Ⅲ. 大学史・公文書(早稲田大学)

  • 『早稲田大学百年史』第二巻 第四編 第八章「小泉八雲を迎える」
  • 『早稲田大学百五十年史』第一巻 第二部 第一章 第四節
  • 早稲田大学本部書類 5-004-047「教員認可願(大学部文学科英文科)〔小泉八雲〕」
  • 早稲田大学本部書類 5-025-053「小泉八雲 小林行昌」
  • 早稲田大学歴史館 FAQ「小泉八雲と早稲田の関係」

Ⅳ. 公的データベース・図書館

  • 国立国会図書館デジタルコレクション(『半生』『文藝百科要義』ほか)
  • 国立国会図書館サーチ
  • 国立国会図書館レファレンス協同データベース(柳田国男・中村星湖)
  • 新宿区立図書館「新宿区ゆかりの人物データベース:中村 星湖」
  • 糸魚川市公式ページ「御風の生涯」(糸魚川歴史民俗資料館=相馬御風記念館)
  • 新潟市會津八一記念館 公式
  • 富士山NET「中村星湖と富士」(山梨日日新聞社)
  • 山梨県『ふれあい特集号 vol.36』(齋藤康彦監修)
  • 近代文献人名辞典(β)「中村星湖」

Ⅴ. 研究論文・展示資料

  • 吉田精一編『明治文學全集72 水野葉舟・中村星湖・三島霜川・上司小劍集』筑摩書房、1969年 ―― 収録作「驕兒」「村の西郷」「一切の事」「畑」「粉負ひ」「通過」「蛆蟲のやうに」「女のなか」/年譜(山田清吉・榎本隆司・伊狩章・紅野敏郎 編)
  • 日本近代文学館編『日本近代文学大事典 第2巻』講談社、1977年、「中村星湖」の項 p.536
  • 高木健夫 編『新聞小説史年表』国書刊行会、1987年、p.188(『かくれ沼』連載記録)
  • 紅野敏郎編『精選 中村星湖集』早稲田大学出版部、1998年11月 ―― 「中村星湖年譜」所収
  • 山梨県立文学館『中村星湖展』1994年(図録)
  • 山梨県立文学館『生誕140年 歿後50年 中村星湖展』2024年4月27日〜6月23日
  • 山梨県立文学館『資料と研究』第1輯〜(中村星湖スクラップブック連載)
  • 影山正美「柳田国男と中村星湖」諸論考(2007〜2011)
  • 松本郁子「中村星湖と太田覚眠の交流をめぐって」『資料と研究』第14輯、2009年
  • 河内美帆「第三次『新思潮』時代の豊島与志雄」『日本近代文学』第109集
  • 王憶雲「中村星湖「彼等は踊る」論 ―独歩に関する言説を手がかりに―」『台灣日語教育學報』第42号、2024年6月
  • 黒岩比佐子『編集者 国木田独歩の時代』角川学芸出版、2007年12月
  • 田山花袋『東京の三十年』博文館、大正6年6月(岩波文庫版 2007年)
  • 高室有子「散文に現れた富士」『富士山山梨県富士総合学術調査研究報告書』山梨県教育委員会、2012年
  • 諸岡知徳「通俗小説という劇場:戦間期新聞通俗小説と挿絵の研究」名古屋大学博士論文(文学)、2013年、p.143(『かくれ沼』挿絵の言及)

Ⅵ. 共同資料(中村孤月・紅野敏郎 引用)

  • 中村孤月「中村星湖論」『現代作家論』磯部甲陽堂、1915年7月 ―― 「現実味を最も多く有つて居る点に於いて、星湖氏の創作は今の文壇に特異の地位を占めて居り」
  • 紅野敏郎「まえがき」『精選 中村星湖集』早稲田大学出版部、1998年11月、ⅰ頁 ―― 「時代の壁を打破するような破壊力こそなかつたが、その温厚な人柄は…耐える力を持った長距離選手として堅実に前進」
注記: 上記の一次資料は、そのほとんどが国立国会図書館山梨県立文学館早稲田大学図書館/歴史館で原本または所蔵情報を確認できます。閲覧には各館の利用規則に従ってください。

本サイト使用画像の出典・ライセンス

本サイトは個人・非営利・学術目的で運営しています。掲載している肖像写真はすべて、日本の著作権法上パブリックドメイン(PD)であることが確認できるもののみを採用しています。日本では、旧著作権法第23条により、公表後13年を経過した写真は著作権保護期間が満了しており、現行法への経過措置(附則第2条)により1970年時点で既に PD であった古写真はそのまま PD のままです。Wikimedia Commons の PD-Japan-oldphoto テンプレート、または国立国会図書館「近代日本人の肖像」・糸魚川市公式資料・山梨県立文学館の公開資料に基づき、出典を明記して使用しています。

  • 中村 星湖(本サイト主人公・22歳) 1906年(明治39年)12月 早稲田大学在学中に撮影、撮影者不詳 / 山梨県立文学館蔵 / 2024年「生誕140年 歿後50年 中村星湖展」プレス公開画像 / 旧著作権法 第23条 保護期間満了 / Public Domain
  • 相馬 御風(早稲田時代) 1912年(明治45年) 早稲田大学創立30周年式典当日、撮影者不詳 / 糸魚川市公式「御風の生涯」掲載画像(糸魚川歴史民俗資料館=相馬御風記念館) / 旧著作権法 保護期間満了 / Public Domain
  • 坪内 逍遥 国立国会図書館「近代日本人の肖像」所蔵 / 没後70年経過(1935年没)/ Public Domain
  • 島村 抱月 国立国会図書館「近代日本人の肖像」所蔵 / 没後100年以上(1918年没)/ Public Domain
  • 二葉亭 四迷 国立国会図書館「近代日本人の肖像」所蔵 / 没後100年以上(1909年没)/ Public Domain
  • 夏目 漱石 1912年9月、小川一真(1860–1929)撮影 / Wikimedia Commons「Natsume Soseki photo.jpg」/ PD-Japan-oldphoto(公表から100年以上)
  • 小泉 八雲(ラフカディオ・ハーン) 1892年、熊本で撮影、富重利平(1837–1922)撮影 / Wikimedia Commons「Lafcadio hearn 1892.jpg」/ PD-Japan-oldphoto・PD-US
  • 国木田 独歩 1890年代、撮影者不詳 / Wikimedia Commons「Kunikida Doppo young.jpg」/ PD-Japan-oldphoto(公表から100年以上)
  • 島崎 藤村 1943年以前、撮影者不詳 / 典拠 国立国会図書館「近代日本人の肖像」/ Wikimedia Commons「Toson Shimazaki.jpg」/ PD-Japan-oldphoto
  • 柳田 國男 1951年10月、『毎日グラフ』10月10日号掲載、毎日新聞社 / Wikimedia Commons「Yanagita Kunio 1951.jpg」/ PD-Japan-oldphoto(法人著作・公表後50年経過)
  • 田山 花袋 1909年、撮影者不詳(『田山花袋全集』3、文泉堂、1973、所収)/ Wikimedia Commons「Tayama Katai, 1909.jpg」/ PD-Japan-oldphoto(公表から100年以上)
  • 會津 八一 1941年6月9日、早稲田大学構内にて撮影 / 典拠 早稲田大学写真データベース / Wikimedia Commons「Aizu Yaichi 1941.jpg」/ PD-Japan-oldphoto

著作権法第32条「引用」として掲載している図版

  • 山梨県『ふれあい特集号 vol.36』p.21 紙面(南湖院集合写真・若き日の星湖肖像・坪内逍遥/島村抱月/二葉亭四迷肖像を含む) 記事監修:齋藤康彦(山梨大学 教育人間科学部 教授)/ 山梨県観光部観光資源課 発行、2009年 / 県公刊物のデジタルブック版 pref.yamanashi.jp/ebook/fureai/vol36_2 / 著作権法第32条「引用」として、本サイトの学術的解説を主、当該紙面を従の関係で必要最小限引用。出典明記。
  • 『早稲田作家処女作集』書影(紅野敏郎・中島国彦・宗像和重 編、講談社文芸文庫、2012年6月) 書影出典:版元ドットコム hanmoto.com/bd/isbn/9784062901635 / 装幀者の著作権は各権利者に帰属 / 著作権法第32条「引用」として、「町はづれ」収録の解説を主、書影を従の関係で掲載。
  • 『少年行』書影(山梨県立文学館 編、2024年4月、生誕140年・歿後50年 記念出版) 書影出典:版元ドットコム hanmoto.com/bd/isbn/9784892570049 / 装幀者の著作権は各権利者に帰属 / 著作権法第32条「引用」として、星湖の代表作『少年行』の解説を主、書影を従の関係で掲載。

法的な根拠(やさしい解説):
写真の著作権は、日本の旧著作権法(昭和45年まで)では「公表後13年」で権利が消滅しました。新法(現行法)への移行の際の経過措置により、すでに PD になっていた写真は今も PD のままです。1906年撮影の中村星湖の肖像、1912年・1918年撮影の相馬御風の肖像は、いずれも撮影から公表まで13年以上経過しているため、撮影者の生死を問わずパブリックドメインとして安全に使用できます。

「引用」(著作権法第32条)の4要件:本サイトでは、① 公表済みの著作物であること、② 本文の論評・解説が「主」で図版が「従」であること、③ 引用の必要性と必然性があること、④ 出典を明示すること、の4要件を満たす形で、「ふれあい特集号 vol.36」p.21 紙面および3点の書影を引用しています。

掲載を見送った画像:
中村星湖 生前刊行本の初版装幀:装幀者が特定できない、または没年不明のものについては、引用の枠内であっても出典の主体を特定できないため見送りました。国立国会図書館デジタルコレクション「インターネット公開」区分の作品(『文藝百科要義』上・中・下ほか)は、NDL デジタルコレクションで原本スキャンをご覧いただけます。