Ⅰ
MASTERPIECE / 小説・長篇
少年行
しょうねんこう
1907年(明治40年)5月 / 『早稲田文学』第18号 臨時増刊(懸賞長編小説 一等当選) / 選者 二葉亭四迷・島村抱月
熔岩(ラバ)のくずれの富士の裾は、じつに、広漠たる眺めである ―― 。
― 『少年行』冒頭(初出は総ルビ)
物語 ― 富士山麓の少年二人
生まれ育った富士五湖北麓の村を舞台に、主人公・奈良原武(ならはら たけし) と、東京から来た転入生宮川牧夫(みやがわ まきお) の友情・成長・そして別れを、四季の変化とともに描きだした星湖の長篇デビュー作。
地方の自然と風俗を強い実景で切り取る〈ローカル・カラー 〉の典型として、発表と同時に自然主義文壇の一大事件となりました。
文壇的事件 ― 抱月・四迷が「一等」を選んだ理由
『早稲田文学』が前年に再刊されてはじめての懸賞長編小説。星湖はまだ在学中の学生でした。選者の島村抱月 は「郷土色の溌剌」を、二葉亭四迷 は「言文の自然らしさ」を絶賛。紅野敏郎は後年、この当選を 「時代の壁を打破するような破壊力こそなかつたが、その温厚な人柄は…耐える力を持った長距離選手として堅実に前進」 と評しました(『精選 中村星湖集』まえがき、1998)。
見どころ
冒頭の「熔岩(ラバ)のくずれの富士の裾は、じつに、広漠たる眺めである」は、富士の麓を詠んだ明治文学の名フレーズ の一つ。
主人公 奈良原武(たけし)と転入生 宮川牧夫(まきお)の友情。
初出『早稲田文学』第18号 臨時増刊は 総ルビ で組まれた特別扱い。
自然主義の代表作として、直後の島崎藤村『春』と並べて語られる地位を獲得。
いま読めるところ
単行本は植竹書院 から1915年刊。自筆原稿は山梨県立文学館 所蔵(2024年「生誕140年 歿後50年 中村星湖展」出展)。河口湖畔・産屋ケ崎 には1957年建立の「少年行」碑 があり、冒頭の一節が黒御影石に刻まれています。
一次書誌:
『早稲田文学』第18号 臨時増刊、1907年5月(復刻版:金尾文淵堂)/植竹書院 単行本、1915年/山梨県立文学館 自筆原稿(2024年特設展 出展)/国立国会図書館レファレンス協同データベース 事例 1000329211(山梨県立文学館、2021年)
Ⅱ
FIRST-HAND WITNESS / 随筆
一瞥したる二文豪
いちべつしたる にぶんごう
明治40年4月1日發行(=1907年4月1日)/ 『早稲田學報』第146号 雑纂「一瞥したる二文豪」
本人はこの随筆のなかで、八雲の講義を聴いてはいない と述べる。たとえば〈来年になったら先生の文學史を聴くことが出来るとばかり思って居た〉〈若しあの一瞥がなかったら――自分は生きて一度も先生を見ずにしまった事であろう〉――一瞥 という題のとおり、教室に座って受けた授業談義ではなく、九月半ばの邂逅と、その後まもない急逝・葬儀が軸になる。
― 『早稲田學報』第146号・丁「三四」付近の叙述に基づく要旨(旧仮名遣い・縦組本文)
「二文豪」とは ― 小泉八雲と島崎藤村
全四章の文芸随筆。八雲については講義を聴いた受講記ではなく 、在学時の邂逅と読書・見聞を織りまぜた回想。島崎藤村のほうは転居や訪問記が日記調に続き、卒業間際の22歳の学生作家が書いた文学史上きわめて貴重な「同時代証言」のひとつ。
第一・二章 ― わずか5ヵ月の「八雲先生」
前年の1903年に東京帝大を退職した八雲が、1904年4月から早稲田の講師となった。大学は八雲に週あたりの講義担当 を課したが、本人(星湖)はその聴講には出ていない と本文で述べる。九月半ばの一瞥 ののち、その日から二十日足らずのうちに1904年9月26日 、心臓麻痺で急逝、9月30日、牛込市ヶ谷 瘤寺(こぶでら)の葬儀へと展開する。第二章以降には、話題になった作家名(ピエル・ロチ 、ツルゲーネフ、世紀末文学の趣)や大講堂の光景の記述もあるが、聴講者として席に着いた連続講義 の記録ではない(本人の立場付けは随筆本文の冒頭部などに明記)。
第三・四章 ― 八雲「犬の聲」から藤村訪問へ
八雲の晩年随筆「犬の聲」に深く感応した星湖は、八雲の旧居近くに住む島崎藤村 へ手紙を出すようになります。本章には、藤村の住居変遷が本人からの書簡を引用しつつ記録されています。
1905年春:藤村「北信の高原より東京に入つて、大久保の某所に隠棲」。
1906年秋:藤村「今度は水のある近所へ引越しました」(浅草区 新片町)。
1906年11月11日:「島崎氏を柳橋なる其実に訪ふ」(日記形式の初対面記)。
見どころ
聴講談義ではなく一瞥から始まる という本人の告白と、それでも残る没・葬儀の写生。あわせて藤村パートでは、訪問した時の 「三十五六の、卵形の、白面朱唇、髪黄ばみ眉濃き方、一輪郭ひきしまり、悲しき憐れむべき眼線黒みて、しかも子等を失ひ妻を亡くされた」 という濃密な人物描写。「新代の作家として『一代の興望』を負へる青年詩人の會見――第一回の會見はかくて終りぬ」 と結ぶ文体そのものが、本人が自然主義の内側で書き得た若さの記念。
一次書誌: 中村星湖「一瞥したる二文豪」『早稲田學報』第146号、明治40年4月1日發行(早稲田大学校友会)。表紙・発行日・雑纂目録は手元のスキャンPDFと一致。本文は縦組・旧字体のまま。
Ⅲ
PIONEER TRANSLATION / 翻訳
ボワ゛リー夫人
フロオベル 作 / 中村星湖 訳 原題 Madame Bovary (1857)
1916年(大正5年)6月14日 / 早稲田大学出版部〈近世文學〉
G. Flaubert 1821–1880
撮影 ナダール(1820–1910)/ 1860年代 Wikimedia Commons / Public Domain
我々が自修室に居る時、校長が一人の新らしい服装をして居ない奴と、大きな書見台を提げた下男と一緒に入つて来た。
― 『ボワ゛リー夫人』第一部 第一章 冒頭(星湖訳、新仮名置換)
日本語フローベール翻訳の原点
星湖訳『ボワ゛リー夫人』は、フランス近代小説の金字塔フローベール『Madame Bovary』の、日本における本格的な単行全訳 のひとつ。「ボヴァリー」をあえて「ボワ゛リー」と表記したのは、原音 [bɔvaʁi] をそのまま仮名で写し取ろう とする意志の現れで、明治末〜大正期の翻訳文化の闘いがそのまま誌面に残ります。
事件 ― 刊行直後に発売禁止
主人公エマ・ボヴァリーの不貞と情念を、フローベール特有の冷徹な描写で追う原著は、フランスでも刊行時に公序良俗違反で訴追された作品。日本でも風俗壊乱の名目で発売禁止処分 となりました。のちに新潮社が検閲当局に「お百度を踏んで」再発行を懇願し(『新潮社四十年』)、星湖訳は結果として、日本における同作普及の道を切り開きます。
その後 ― ベストセラー〈世界文學全集〉第20篇へ
1927年(昭和2)8月、新潮社〈世界文學全集〉第20篇 として、廣津和郞訳『女の一生』と合綴で『ボヴァリイ夫人/女の一生』が刊行されベストセラーに。この印税が、翌1928年の星湖のフランス留学費用となりました。春陽堂の酒井真人訳、万有文庫の河原万吉訳、三星社の水上齋訳など、大正〜昭和初の『ボヴァリー夫人』の諸訳は、星湖訳の本文を下敷きにしていると推定されています 。
見どころ
文末を「…た。」でなく「…けり。」「…ぬ。」の文語で締めることが多く、自然主義と雅文の中間体 で書かれている。
「ボワ゛リー」の仮名表記は、当時の音声学的翻訳志向の記念碑。
発禁→新潮社再刊→〈世界文學全集〉入集→渡仏、という一冊の本が作家の人生を動かした数少ない例 。
一次書誌: フロオベル 著/中村星湖 訳『ボワ゛リー夫人』早稲田大学出版部、1916年6月/『ボヴァリイ夫人/女の一生』新潮社〈世界文學全集〉第20篇、1927年8月(廣津和郞 訳と合冊)/新宿区立図書館「新宿区ゆかりの人物データベース:中村星湖」(発禁を記述)
Ⅳ
MODEL NOVEL / 小説・短篇
彼等は踊る
かれらは おどる
1916年(大正5年)9月 / 雑誌『太陽』秋季大付録 / 博文館
田淵一樹といへば、「あゝ、あの四十を幾つも越さずに病気で死んだ小説家か」と明治末期の文学に心を寄せてゐる人は直ぐに合点するであらう。自然主義運動の先駆者の一人であつた彼の芸術の人格に就いては最早世に定評がある。定評を下しても好いまでに、彼の死後の年月を経過した。
― 『彼等は踊る』冒頭(初出『太陽』大正5年9月)
物語 ― 独歩の臨終に集う文学者たち
1908年6月、茅ヶ崎・南湖院 で結核療養中の国木田独歩を、まだ新進だった星湖が、同僚とともに見舞いにいく。そこで彼は独歩の病床だけでなく、「独歩の死」を前にして酔い、踊り、叫ぶ文学者たち の不思議な狂騒を目撃します。実体験から8年後、星湖はその一部始終を、登場人物の名前だけを変えた「モデル小説」として書きあげました。
登場人物対応表 ― 誰が誰なのか
作中人物 モデル
田淵一樹(死にゆく小説家) 国木田 独歩
園田(語り手「私」) 中村 星湖 本人
細井(園田の同僚) 相馬 御風
阿部(田淵の親友) 田山 花袋
松本(硯友社派小説家) 小栗 風葉
鈴木(画家) 小杉 未醒
物語構造 ― 三つの日
王憶雲氏(台湾大学日本語文学系 准教授)による最新の論究によれば、作品は三つの場面で構成されています。
第一の日: 園田と細井が見舞いに赴き、病室で田淵と初対面。沈黙のあと、田淵の2人の子供「みつよし」が入ってきて、園田が膝にのせた瞬間、二人の距離が一気に縮まる。
夜: 硯友社派の松本とその弟子たちが病室を訪れ、彼らの宿に園田たちを連れ帰る。庭で相撲。芸者をあげて酒宴。画家鈴木は「あゝ大いに酔ふべし!」と叫ぶ。
翌日: 田淵の友人や後輩と病院で合流、集合写真を撮って解散。ここに作品の有名な「写真が撮られる瞬間」が物語として組み込まれている。
結末 ― なぜ彼らは「踊る」のか
末尾で語り手・園田は、騒ぎをこう回想します―― 「田淵氏には人を踊らせ歌はせる力があつた。……酔ふ者、踊る者、叫ぶ者、それ等すべては各自に酔ひたいから酔ひ、踊りたいから踊り、叫びたいから叫んだのだ……けれども、あの時死んだのが田淵氏でなくて他の一人であつたならば何うであらう?」 。ひとりの巨匠の死は、ただの悲しみを呼ばず、「時代が自然主義に移行していく」ためのエネルギー放出の儀式 にすり替わってしまう――星湖の筆はそこに、冷静でも冷酷でもない、「冷たさと熱の同居」を描き出します。
同時代の反響 ― 花袋『東京の三十年』の引用
田山花袋は翌1917年6月、自伝『東京の三十年』(博文館)で本作を二度にわたり引用 し、「独歩の死」の章で独歩の最期の実像を補完する資料として扱っています。つまり、当時すでに「彼等は踊る」は、小説でありながら独歩の死を伝える同時代文献として読まれていた 。黒岩比佐子『編集者 国木田独歩の時代』(2007)も、この小説の記述を独歩研究の基本文献として位置づけています。
晩年の星湖が一番気に入っていた作品
1960年代後半(昭和40年代)、80代の星湖は、この短篇を実名つきで注釈して再刊したい と考え、山梨県立文学館所蔵の2種類の草稿「国木田独歩のこと」を書き始めています(資料番号 230000802/230001720)。晩年の「まえ書き」には、星湖自身がこう書き残しました―― 「私の独歩に関する著作のうちで、もつとも気に入つたのは、独歩がまさに亡くならうとする頃の茅ヶ崎南湖院附近を舞台とした短篇小説『彼等は踊る』だつた」 。草稿はいずれも中絶し、計画は実現しませんでした。
一次書誌: 中村星湖「彼等は踊る」『太陽』大正5年9月 秋季大付録、博文館/田山花袋『東京の三十年』博文館、1917年6月(岩波文庫 2007)/山梨県立文学館蔵 草稿「国木田独歩のこと」(230000802・230001720)/王憶雲「中村星湖「彼等は踊る」論 ―独歩に関する言説を手がかりに―」『台灣日語教育學報』第42号、2024年6月/黒岩比佐子『編集者 国木田独歩の時代』角川学芸出版、2007年12月
Ⅴ
REGIONAL THOUGHT / 随筆集
文化は郷土より
ぶんかは きょうどより
1943年(昭和18年)4月5日 / 大智書房 全1巻/柳田国男への献辞あり
都市には文明はあるが文化に乏しく、地方は文明に遠ざかつているが文化がある。何もないような所に、人間が継承してきた宝がひそんでいる。
― 本書の要旨(山梨県立文学館 2024年展 解説より)
郷土文化運動の思想書
戦時下の1943年、星湖が山人会会長として、また富士五湖地方文化協会の創設者として積み上げてきた 「郷土から出発する文化」 についての論文・随筆・講演録をまとめた一冊。都会の模倣ではなく、地域の祭礼・地名・方言・民俗・山の伝承 のなかにこそ文化はあると説きます。「五湖文化」(1940年創刊/星湖 編集)の思想的バックボーンにあたる書物。
柳田国男への献辞
本書の凡例(p.1)と目次(p.6) には、柳田国男への献辞が記されています。柳田と星湖のあいだには複数の葉書往来があり、とくに1943年2月8日付葉書 の画像は、山梨県立文学館編『富士百景――その文学と美』(2001)p.18 に掲載されています。本書の出版は、二人の思想的接続が公に結実した出来事でした。
見どころ
文学者から 地域知のコーディネーター へ、という星湖の転身を示す「思想書」。
戦時下にあっても、政治プロパガンダに流されず、地域民俗の豊かさを擁護した。
柳田国男 民俗学と星湖の郷土文化運動の公的な合流点 。
戦後の河口村教育委員長・地方校歌作詞運動・富士五湖文化協会の理論的出発点 でもある。
いま読めるところ
国立国会図書館 請求記号 I000000689024 で現存を確認可能。原本は山梨県立文学館 に所蔵され、2024年「生誕140年 歿後50年 中村星湖展」で展示されました。
一次書誌: 中村星湖『文化は郷土より』大智書房、1943年4月5日/国立国会図書館 レファレンス協同データベース 事例 1000343457(山梨県立文学館、2021年)/山梨県立文学館編『富士百景――その文学と美』山梨県立文学館、2001年、p.18
小説・短篇
盲巡礼(めくらじゅんれい)
1906年(明治39年) / 『新小説』懸賞 一等入選
星湖の事実上の文壇デビュー作 。早稲田大学在学中、大手文芸雑誌『新小説』の懸賞小説で一等に選ばれた。翌年の『少年行』当選への助走となり、無名の学生作家が本当に文壇入りを果たした決定打。
◇ 山梨県『ふれあい特集号 vol.36』(齋藤康彦 監修)
◇ コトバンク「中村星湖」
短篇集
半生(はんせい)
1908年(明治41年)12月 / 早稲田文学社
星湖の第一短篇集 。早稲田文学社 記者時代の初期短篇を集める。国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されており、本人の初期作風をそのままの組版で読むことができる。
短篇集/長篇
星湖集/影
1910年(明治43年)4月 / 東雲堂 + 同年10月 / 今古堂
4月刊『星湖集』 (第二短篇集)と10月刊『影』 (長篇)を同年に相次いで刊行。新進自然主義作家としての脚光のピークを示す書物。短篇集の表題「星湖集」は、彼の号を冠した唯一の主観的タイトルでもある。
◇ 紅野敏郎編『精選 中村星湖集』年譜(早稲田大学出版部、1998年)
短篇集
漂泊(ひょうはく)
1913年(大正2年)8月 / 春陽堂
第三短篇集。「身近な事象に基づく作品」(山梨県『ふれあい特集号』)を重ね、星湖文学の「地に足のついた自然主義」 がほぼ完成した時期の集成。同時期にモーパッサン翻訳にも着手、評論家としての地歩も築く。
◇ NDLサーチで現存確認
短篇集
女のなか
1914年(大正3年)10月 / 早稲田文学社
第四短篇集。表題作「女のなか」は『明治文學全集72』(筑摩書房、1969)に再録され、後世も読まれ続けている星湖の代表中短篇の一つ。
◇ 吉田精一編『明治文學全集72』筑摩書房、1969年
短篇集
失はれた指輪
1919年(大正8年)7月 / 天佑社
星湖が『早稲田文学』を退社した年に刊行された第五短篇集。自然主義文学者としての区切り、そして批評家・翻訳家・児童文学者・郷土文化運動家へと領域を拡張する前夜 の一冊。
◇ 近代文献人名辞典(β)「中村星湖」
小説・長篇
かくれ沼
1919年10月24日〜1920年1月20日 / 『東京朝日新聞』連載 全87回
『早稲田文学』退社と同年、全国紙に長篇を連載 。挿絵は浮世絵系洋画家 池田輝方 (全87回すべてに「池田輝方 画」の表示)。新聞小説の黄金時代に書かれ、星湖のもっとも広い読者層に届いた作品 。
◇ 高木健夫 編『新聞小説史年表』国書刊行会、1987年、p.188
◇ NDL レファレンス協同DB 事例 1000368950(山口県立山口図書館、2025年)
短篇アンソロジー
『明治文學全集72』収録 短篇 8作
1969年5月26日 / 吉田精一編/筑摩書房
20世紀に再評価のために選ばれた星湖の短篇8作 :「驕兒」「村の西郷」「一切の事」「畑」「粉負ひ」「通過」「蛆蟲のやうに」「女のなか」。解説は中村孤月「中村星湖論」と吉田精一「中村星湖」が併載、年譜は山田清吉・榎本隆司・伊狩章・紅野敏郎編。星湖の短篇ベスト集 として、いまも古書店で入手可能。
◇ 筑摩書房 1969年5月26日刊、菊判434頁
評論
モオパッサンの象徴主義
1914年(大正3年)1月 / 『早稲田文学』
「真の自然主義の到り着くべき所は物心一如のサムボリスムでなければならない」 ―― 日本の自然主義を、フランスの象徴主義と切れ目のない連続体として捉えなおす、星湖の理論的到達点 。豊島与志雄の「恩人」を真っ先に称揚した「五月の小説(三)」(『時事新報』1914年5月10日)とも呼応する、同時期の星湖の批評活動の核。
◇ 河内美帆「第三次『新思潮』時代の豊島与志雄」『日本近代文学』第109集(本論文を一次資料として検討)
随筆
独歩について
1919年(大正8年)6月 / 『文章世界』博文館
国木田独歩 没後11年の小特集(他の執筆者:赤木桁平・田山花袋・片上伸 )に寄稿。「私は独歩にはたゞ一度逢つた切りである、それも彼が死ぬ一週間前位ゐの、極きはどい時にだつた。……相馬御風君と私とで、早稲田文学社を代表して見舞ひに行つた、それが初見参でもありお別れでもあつた」 ――星湖・御風・独歩の三者関係を語るもっとも強い一次証言 。
◇ 独歩との対面が「死ぬ一週間前位ゐ」(=1908年6月中旬)であったことも本文から確定する
評論集
評論講座
1926年(大正15年) / 金星堂
1920年代の星湖の評論活動を体系化した書物。自然主義の総括、モーパッサンとフローベールの再評価、日本文学の近代化の総点検――大正末の文芸批評の立場の一つ として、農民文藝会・民衆芸術運動とも接続する。
◇ 書誌情報:書肆田高「評論講座/中村星湖」
評論
農民劇場入門
1927年(昭和2年) / 春陽堂
星湖の農民文学運動・民衆芸術運動 における代表的評論書。犬田卯を中心とする農民文藝会、白鳥省吾の農民詩運動が最盛期を迎える時期に、農村と劇場芸術の接続可能性 を論じる理論書として刊行。雑誌『農民』は同年に新潮社から創刊された。
◇ NDLサーチで現存確認
回顧評論
自然主義運動の回顧
1927年(昭和2年)6月 / 『早稲田文学』
自然主義運動のただ中にいた当事者本人 が、20年後の視点から「あの時、自分たちは何をしていたか」を回顧した評論。大正末〜昭和初の「自然主義は終わった」論壇に対して、星湖が自然主義の生き証人として果たした役割が確認できる一篇。
◇ 『早稲田文学』1927年6月号
新聞連載
詩人独歩と語る
1927年(昭和2年)4月26日〜5月5日 / 『報知新聞』連載
独歩没後19年の節目に、星湖が新聞で連載した回想評論 。南湖院の思い出を新聞読者に向けて改めて語り直し、独歩像の「語り継ぎ」を担う。1934年の独歩記念碑建立運動の思想的前段に位置する。
◇ 『報知新聞』1927年4月26日〜5月5日
評論
国木田独歩
1934年(昭和9年)1月 / 『日本文学講座 第十一巻 明治文学篇』改造社
改造社『日本文学講座』明治文学篇のなかで独歩の章を星湖が担当。「燎原の火の如き勢ひを以て天下を風靡した自然主義文学の先頭に『詩人独歩』の青白い顔を置いて眺めることはすこしも怪しくない」 ――日本近代文学の開拓者 としての独歩像を理論化した一篇。同年、神奈川県高津町溝ノ口に題字 藤村・碑文 星湖の独歩記念碑が建立される。昭和9年だけで、星湖は独歩論を4本以上発表。
◇ 改造社『日本文学講座 第十一巻 明治文学篇』1934年1月
随筆
独歩記念碑
1934年(昭和9年)7月4日 / 『山梨日日新聞』
独歩「忘れえぬ人々」の舞台高津町溝ノ口 の亀屋前庭に、星湖と藤村の共同で記念碑が建立された、その経緯を描いた文。碑の題字は島崎藤村 、碑文は中村星湖 。若き日の南湖院での一期一会が、26年越しに形として残された出来事。
◇ 『山梨日日新聞』1934年7月4日(同時期『秋田魁新報』1934年9月27・28日「国木田独歩とその頃の文壇」も発表)
文庫解説
新潮文庫の解説 三篇
1938年10月 / 1939年3月 / 1940年5月 / 新潮社
星湖が連続して執筆した新潮文庫の解説:
・『獨歩全集』2「獨歩集」(1938年10月1日)
・島崎藤村『藤村感想集 上巻』(1939年3月31日)
・二葉亭四迷『其面影』(1940年5月14日)
かつて実際に交流(独歩)・訪問(藤村)・選考を受けた(四迷) 作家の文庫解説を、本人が書いている――近代文学史のミニチュア のような仕事。
◇ 新潮文庫 各書の奥付により刊行日を確認
晩年の回想
処女作の感想
1953年(昭和28年)8月 / 『現代作家処女作集 早稲田作家篇 第1集』潮書房
星湖の処女作は長篇『少年行』だったため、本集には代わりに「町はづれ」(『早稲田文学』明治41年6月)が再録され、本人が書下ろしの回想を寄せた。45年前の独歩見舞いを 「社を代表して独歩の病気見舞に行つた」 と詳細に振り返る、晩年69歳の星湖自身の証言 。
◇ 青野季吉・谷崎精二 監修、pp.249-250
翻訳
月光(げっこう)
1913年(大正2年) / ギ・ド・モーパッサン 作 / 海外文芸社〈海外文芸叢書 第3編〉
星湖によるモーパッサン翻訳の最初期作品 。モーパッサン短篇集として海外文芸社の叢書に収められた。これを機に星湖は翌1914年『死の如く強し』を博文館から出し、大正期日本におけるモーパッサン受容の一翼 を担う。
◇ モーパッサン翻訳書誌・NDLサーチで書誌確認
翻訳
死の如く強し
1914年(大正3年) / モーパッサン 作 原題 Fort comme la mort (1889) / 博文館〈近代西洋文芸叢書 第4冊〉
モーパッサンの後期長篇。年齢差のある男女の愛と喪失を冷徹に描いた心理小説で、モーパッサン文学の集大成のひとつ。星湖は自然主義から心理小説へ の推移を、翻訳を通じて日本に紹介した。
◇ モーパッサン翻訳書誌・NDLサーチ
翻訳(代表作)
ボワ゛リー夫人
1916年 / フロオベル 作 / 早稲田大学出版部
フローベール『Madame Bovary』の先駆的な日本語単行全訳。風俗壊乱で発売禁止になり、のちに新潮社〈世界文學全集〉に入集してベストセラーとなった。詳細は本ページ上部「特集 Ⅲ」を参照 。
◇ 早稲田大学出版部〈近世文學〉1916年6月
翻訳
我等の心(われらのこころ)
1921年(大正10年) / モーパッサン 作 / 天佑社〈モウパッサン全集〉第8巻
モーパッサン最後の長篇 の邦訳。星湖の翻訳は大正期の天佑社〈モウパッサン全集〉の重要な一翼を担った。フローベール訳とあわせ、星湖はフランス近代小説の中核を日本語へ翻訳し続けた大正翻訳界の主要人物の一人 である。
◇ 天佑社 1921年〈モウパッサン全集〉第8巻
翻訳
三つの物語
1939年(昭和14年) / フローベール 作 / 冨山房〈百科文庫〉
フローベール晩年の短篇集『Trois Contes』(1877)の邦訳。星湖はボヴァリー夫人のあともフローベール作品を翻訳しつづけ 、昭和初期に『三つの物語』として冨山房百科文庫に入れた。
◇ 冨山房 1939年〈百科文庫〉
共編書
文藝百科要義 上・中・下巻
1921年(大正10年)6月 / 相馬昌治(御風)・中村星湖 共編 / 春陽堂
星湖と相馬御風 の共同編纂による、文芸一般の百科事典的な書物。両者の盟友関係が書物の形で残った、もっとも動かぬ一次資料 。全3巻とも国立国会図書館に現存、デジタルコレクションでインターネット公開中 。
◇ NDLサーチ「文藝百科要義 上,中,下巻 春陽堂 大正10」/請求記号 338-377
共著
明治文學講習會の記
1933年(昭和8年) / 人見圓吉・中村星湖・川本春野 共著 / 日本女子高等學院 明治文學研究會
星湖が教鞭をとった日本女子高等學院 の明治文學研究會として編集した書物。星湖が戦前期に教育者として活動していた時期の、教育と研究を両立する姿勢 を示す貴重な一冊。
◇ 近代文献人名辞典(β)「中村星湖」
児童文学
鈴木三重吉『赤い鳥』童話
1919年(大正8年)以降 / 雑誌『赤い鳥』
『早稲田文学』を退社した年から、鈴木三重吉 の児童雑誌『赤い鳥』に童話を寄稿。自然主義作家・翻訳家・評論家の顔に加え、児童文学者 としての活動もここから始まった。大正〜昭和初期の童話運動の、広い意味での一翼。
◇ 新宿区立図書館「新宿区ゆかりの人物データベース:中村 星湖」(「鈴木三重吉『赤い鳥』に童話を発表」)
作詞
山梨県の小中学校 校歌 作詞
戦後(昭和20年代〜) / 山梨県内 小中学校 多数
戦後の河口村疎開期、村の教育委員長として地域教育に貢献するとともに、県下の小中学校の校歌を多数手がけた 。山梨県『ふれあい特集号 vol.36』が「県下の小中学校の校歌の作詞も多数手掛ける」と記録する。文学者の言葉が県民に歌われ続けている 、もっとも生きたかたちでの作品群。
◇ 山梨県『ふれあい特集号 vol.36』